9世紀から11世紀の半ば、かつて北欧の地にはヴァイキングと呼ばれる屈強な武装集団が存在していた。
彼らはヨーロッパの各地に出没し、次第にヨーロッパ諸国を侵略。現在では西洋史に大きな影響を与えた集団と見られると共に、破壊と略奪の限りを尽くした恐るべき者たちと認識されている。
さて、そんな恐るべきヴァイキングたちが行っていた想像を絶する処刑法が存在するのをご存じであろうか?
今回は、ヴァイキングたちの間で執り行われた処刑法「血の鷲」について紹介していこう。
ヴァイキングとは
まず血の鷲について説明する前に、ヴァイキングについて簡単に説明していこう。
※ヴァイキングの詳細については以下の記事をご参照ください
世界の戦闘民族ヴァイキングについて調べてみた 「曜日やクリスマスツリーの起源だった」
https://kusanomido.com/study/history/western/53326/
ヴァイキングとは、ヴァイキング時代(800年- 1050年)と呼ばれる約250年間に、西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンジナビア、バルト海沿岸地域に存在した北方系ゲルマン民族(ゲルマン人)の海賊・武装集団である。
ヴァイキングがヨーロッパに進出した理由については諸説があり、高度な航海術と軍事・工業技術を背景に侵略に及んだという説もあれば、キリスト教の浸透が原因との説もあるため、直接的な原因は現在も判明していない。
また、海賊と略奪を専業にしているイメージがあるが交易民でもあるため、故郷においては農民であり漁民でもあった。
特に有名な伝説のヴァイキング集団にヨムスヴァイキング(ヨームのヴァイキング)と呼ばれる者たちがおり、彼らはバルト海沿岸にヨムスボルグという城塞を築くと、首領のシグヴァルディの下、「のっぽのトルケル」といった豪傑たちを従えて、スカンジナビア半島、イングランド東部を侵略したと北欧の伝承記であるサガに伝わっている。
彼らはオーディンやトールといった神々への崇拝に一生を捧げており、戦場で死ぬことを恐れていなかった。
また、キリスト教徒たちからは異端者として恐れられていたが、ヨムスヴァイキングらは相当な額の報酬を払ってくれる貴族には忠誠を誓ったため、時にはキリスト教徒である統治者にも協力していた。
血の鷲 BLOOD EAGLE
ここから「血の鷲」について記述していこう。
北欧の吟遊詩人が詠んだスカルド詩やサガによれば、以下のような処刑方法であったとされる。
ヴァイキングは捕らえた地元の領主や貴族をうつ伏せにして台座に寝かせると、高らかに自らの崇める神の名を叫び、斧や剣といった刃物で相手の背を切り開いた。その後、肋骨を切り離し、肺を引きずりだして翼のように広げる。遺体は高く掲げられ、恐怖の対象となった。
この処刑法が現実に行われていたかどうかの史料は、上記のスカルド詩とサガの2点だけであることから、長きに渡って研究者たちの議論の対象となっていた。
しかし、スウェーデンのバルト海に位置するゴットランド島には、ヴァイキング時代の石碑が発見されており、この血の鷲を模したような図像が描かれていたため、ヴァイキングが何らかの処刑法を行っていたことは明らかである。
さらにアイスランドとアメリカシカゴ大学の研究チームは、解剖学的にこの処刑法が可能かどうかを調べたところ、両者とも「可能である」という答えを導き出したのだ。
ヴァイキングが何故このような残虐な処刑法を行ったのかは分からないが、スウェーデンの都市遺跡であるビルカにはヴァイキングの女性戦士が丁寧に埋葬されていることから、この「血の鷲」も、高貴な者に対しての儀式的な意味合いがあったのではないかという意見も存在している。
美髪王ハーラル1世と骨なしのイーヴァル
血の鷲について記述がある人物は、「美髪王」と呼ばれたハーラル1世と「骨なし」の異名を持つヴァイキングのイーヴァルである。
この二人は共に活躍した時代も職業も違うが、両者とも肉親の復讐のために血の鷲が行われている点は共通している。
両者の経歴と「血の鷲」についてのエピソードを併せて紹介していこう。
ハーラル1世
ノルウェー最初の統一王とされる人物。スウェーデン王家の出身とも言われている。
「美髪王」の異名を持つがこれには由来がある。若き日のハーラル1世は、ノルウェー西部の一小王の娘に求婚したが、「ノルウェー全体の王としか結婚できない」と拒絶されてしまった。
そこで彼はノルウェー全土の征服を決意し、それを実現するまで髪を切らない誓いを立て、「蓬髪(ほうはつ)のハーラル」と呼ばれた。
その後、ノルウェー統一が成った後は小王の娘と結婚し、髪を整えたため、以後「美髪」と呼ばれるようになったという。
こうしてノルウェー統一を果たした美髪王ハーラル1世だったが、居城を留守にした際にトルフ・エイナルという者が、ハーラル1世に殺された父親の復讐のため、ハーラル1世の息子であるハールフダンと子女たちを殺害する事件が発生。
サガによれば、トルフは以下の記述のようにハールフダンたちを「血の鷲」によって処刑している。
エイナル侯はハールフダンに歩みより、剣を背骨のわきの空洞部に差し込み、上から腰まで肋骨を全て切り、そこから肺を引っ張り出すというやり方で〈血鷲の刑〉を実行した。それがハールフダンたちの死であった。
これを知ったハーラル1世は悲しみながらも軍勢を率いて舞い戻り、トルフを弓で射殺したという。
骨なしのイーヴァル
次に紹介する人物がヴァイキングの指導者イーヴァルである。
彼はスカンディナヴィアの伝説的な英雄であるラグナル・ロズブロークの子供と言われており、「骨なし」というあだ名を持っていた。
なぜ「骨なし」というあだ名で呼ばれていたのかは諸説あるが、知恵、狡猾さ、および戦闘における戦略、戦術に優れたヴァイキングであったは間違いないようである。
イ―ヴァルが幼い頃、父であるラグナルはスウェーデン王を称して、ヨーロッパ各地を征服。その後、イングランドのノーサンブリア王国に攻め込んだが、敗北して捕らえられてしまう。
ラグナルを捕らえたノーサンブリアの王・エッラ(アエルラ)は、蛇が無数に住まう部屋の中にラグナルを閉じ込めて処刑。父ラグナルを失ったイーヴァルはノーサンブリアに復讐を誓うようになる。
そして865年。成長したイーヴァルは、兄弟たちと共にヨーロッパ各地のヴァイキングを率いて、イングランドに侵攻を開始する。
イングランドに上陸したこのヴァイキング軍の蹂躙は凄まじく、地元のキリスト教徒たちから「大異教軍」と呼ばれるほどであった。
翌年にはノーサンブリアの首都ヨークを陥落させ、867年、遂に父の仇であるエッラ王を捕縛することに成功した。
イーヴァルはエッラ王を台座に跪かせると、斧を手に王の背中を切り開いた。また、傷口に塩を塗り込んだため、エッラ王の絶叫は鳴り響いたと言う。
復讐を果たしたイーヴァルはその後もイングランドを侵略し、イーストアングリアの王であるエドマンド王を捕らえ、これも処刑した。
この際は血の鷲を用いず、弓矢で滅多射ちにしている。
さいごに
今回はヴァイキングの処刑法である「血の鷲」について紹介した。
ハーラル1世とイーヴァルのエピソードから見るに、やはり復讐としての最大限の処刑法に思えた。
ただ、サガには「血の鷲」についての記述がほとんどないので、それほど頻繁に行われた処刑法ではなかったのかもしれない。手間も時間もかかるので、一部の高貴な身分の者たちに対してだけだったのだろうか。
ただ、現代の解剖学的にも可能だったという点と、ゴットランド島の石碑の存在から、やはり儀式的な処刑法として実在していたのだろう。
参考文献
ヴァイキングの歴史
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