西洋史

【不敗の変人元帥】アレクサンドル・スヴォーロフ 「30分以上じっとしていられない」

アレクサンドル・スヴォーロフは、その生涯において7つの戦争と60回以上の戦闘に参戦し、一度も敗北しなかったロシアの傑出した指揮官である。彼は最終的に「大元帥」の称号を授与された。

ロシア帝国における「大元帥」の称号は、一般的にはその人物に威厳と名誉を付与するために授与されるものであった。しかし、スヴォーロフはその卓越した軍功によって、この称号を得た唯一の人物である。

彼の軍事的才能は軍事史上でも傑出しており、「常勝不敗の指揮官」として世界的にも名声が高い。

しかし、実生活においてはエキセントリックな行動が多く、変人としても知られていた。

スヴォーロフの生い立ち

アレクサンドル・スヴォーロフ

画像 : スヴォーロフ元帥 public domain

スヴォーロフは、1729年にモスクワで生まれた。

幼少期のスヴォーロフは病弱だったが軍人になることを夢見ており、13歳にはロシア・スェーデン戦争へ参加した。
破竹の勢いで出世し、1756年には大尉となり、18世紀のヨーロッパ最大の戦争でもあった七年戦争にも参戦した。

怒涛の活躍

スヴォーロフの軍事的なキャリアは、1768年から1774年にかけて行われた第一次露土戦争で本格化する。

この戦争において、彼はピョートル・ルミャンツェフ元帥の指揮下で活躍し、コズルドジの戦いではわずか8000人の兵力でオスマン帝国の40000人の軍勢を撃退するという驚異的な勝利を収めた。

続く第二次露土戦争でも、スヴォーロフはその卓越した戦術を発揮した。

スヴォーロフの軍歴における最も輝かしい功績は、難攻不落とされていたオスマン帝国の重要拠点「イスマイル要塞」の攻略である。

アレクサンドル・スヴォーロフ

画像 : イスマイル要塞 public domain

ロシア側の死傷者と比べて、トルコ側の死傷者はなんと4倍だった。

この第二次露土戦争の勝利によって、スヴォーロフはエカチェリーナ2世から「ルムニク伯」の爵位を授けられた。
しかしスヴォーロフは、総司令官であるポチョムキンと反発し合っており、戦争が終わる直前にスェーデンとの国境警備隊へと左遷させられ、ポチョムキンが死去すると再び呼び戻されることとなる。

1794年3月、ポーランドでタデウシュ・コシチュシュコによるロシアへの蜂起が勃発。

スヴォーロフは、これを鎮圧するために派遣され、10月にはコシチュシュコを捕縛した。

画像 : タデウシュ・コシチュシュコ public domain

この蜂起を鎮圧したことで、スヴォーロフは元帥に昇進し、その後もフランス革命戦争において、イタリアでのフランス軍との戦いで数々の勝利を収める。

しかし、援軍の敗北や補給の遅れにより、スイスのアルプス山中で孤立し、真冬のアルプス越えを余儀なくされた。

この時、スヴォーロフは69歳であり、その挑戦はヨーロッパ中に驚愕を与えた。

画像 : スヴォーロフのアルプス越え public domain

アルプス越えの功績により、スヴォーロフは大元帥の地位を授与されたが、1800年にはパーヴェル1世によってすべての地位を剥奪され、軍を退くこととなった。

類まれなる軍事的才能がありながら、このように度々左遷や解任されてしまうのは、癖の強すぎる性格が原因だったとされている。
気に入らなければ、相手が誰であろうと容赦無く批判してしまう性格だったようだ。

同年、サンクトペテルブルクで死去したが、その死後、アレクサンドル1世によって名誉が回復された。

私生活での変人ぶり

スヴォーロフの軍人としての経歴を見ると輝かしいものだが、個人としてみると彼ほど癖の強い人物は珍しいだろう。

朝4時には起床し、直ぐに頭から冷水を浴びていたという。また、雄鶏の鳴き声を真似て叫ぶなど、奇行でも知られていた。

スヴォーロフは、とにかく落ち着きがなかったという。

パレードでは30分以上同じ場所に立つことができず、叫んだり歌ったりしていた。
宮廷ではテーブルの上に飛び乗ったり、床に身を投げ出すこともあったと言われている。

装いも非常に質素であり、季節を問わずシャツと木綿のズボン、帽子を好み、時には裸足で過ごすこともあった。

さらに、スヴォーロフは部下に対して奇妙な質問を投げかけることが多かった。

例えば「空までの距離」や「カスピ海に生息する魚の数」などを尋ねるなど、その内容は荒唐無稽であった。しかし、この謎の質問によって彼は戦局を見抜く才能のある者を見極めていたとされている。

画像 : ソビエト連邦 切手, アレクサンドル・スヴォーロフ, 1980年 public domain

アレクサンドル・スヴォーロフは、その58年に及ぶ軍歴の中で一度も敗北を喫することのなかった指揮官として、世界史にその名を刻んだ。

癖のある性格により、時の権力者たちから好かれることは少なかったが、その軍事的才能は間違いなく卓越したものであったと言える。

参考 : 帝政ロシアの国家構想: 1877-78年露土戦争とカフカース統合 (著 高田和夫)
文 / 草の実堂編集部

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 日本初のサンタクロース『三太九郎』 〜義理人情を重んじる北国生ま…
  2. 中世フランスに実在した謎の「鉄仮面の男」の正体
  3. 古代中国の皇帝はどうやって側室を選んだのか? ~多いときは一万人…
  4. 【奴隷から皇帝の正妻へ】オスマン帝国を操った悪女?一夫多妻制を廃…
  5. 不倫はなぜダメなのか? キリスト教と結婚制度から考える 「元は人…
  6. デュ・バリー夫人 「ギロチン台で泣き叫んだルイ15世の愛人」
  7. 【光る君へ】男児を産めない重圧…道長の四女・藤原威子(栢森舞輝)…
  8. 黄金の国「ジパング」とは岩手県のことだった説 ~後編 【コロンブ…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

北条氏を滅ぼした新田義貞 【鎌倉幕府 倒幕への挙兵 悲運の功労者】

南北朝時代が幕を開ける切っ掛けとなったのは後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕運動であった。腐敗し…

【自衛隊の闇組織】 諜報組織「別班」は本当に存在していた ~日曜劇場『VIVANT』

日曜劇場『VIVANT』が面白い日曜劇場『VIVANT』が話題です。半沢直樹を彷彿させる…

松平定政 〜突然大名を捨てて出家し「狂気の沙汰」と呼ばれた家康の甥

松平定政とは松平定政(まつだいらさだまさ)は徳川家康の甥として生まれた。徳川一門として取…

「平家物語」を語る琵琶法師はもういないのか調べてみた

1.はじめにこの楽器は「平家琵琶」という。文字通り「平家物語」を語るためにだけ存在す…

宝蔵院胤栄の槍術【上泉信綱に学び宮本武蔵に挑まれた神槍】

宝蔵院胤栄とはあの宮本武蔵が立ち合いを望んだ相手の1人が宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい…

アーカイブ

PAGE TOP