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ソンムの戦いについて調べてみた【世界初の戦車・実戦投入】

ソンムの戦いについて調べてみた【世界初の戦車・実戦投入】
※イギリス軍の塹壕

1916年7月1日から同11月19日までフランス北部・ピカルディ地方を流れるソンム河畔において、第一次世界大戦における最大の激戦が行われた。

連合国側のイギリス軍・フランス軍が同盟国側のドイツ軍に対する大攻勢として開始し、最終的に両軍合わせて100万人以上の損害を出した激戦である。

そして、その戦場には19台の新兵器が投入されたのである。

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西部戦線の膠着


※西部戦線の形成と「海への競争」 1914年

1914年に勃発した第一次世界大戦は、フランス方面では英仏連合軍 対 ドイツ軍の構図となっていた。ドイツは大軍でフランス軍を包囲殲滅する作戦を実施したが、マヌルの戦いで英仏連合軍の反撃に遭い作戦は失敗、以後ドイツ軍は塹壕を築いて防御の態勢に入った。

また、連合軍もこれを突破できないと分かると、同じように塹壕を築く。その当時、大量に配備され始めた機関銃が猛威を振るい、1挺の機関銃が1,000人の兵士を撃退したといわれるほどに、塹壕にこもる側が有利な状況となっていた。

さらには両軍は、敵が戦線を迂回することを警戒し、塹壕をどんどん左右方向に延ばしてゆく。結果、大西洋岸からスイス国境にいたるまで数百キロにわたって延びる塹壕戦が出現、西部戦線は膠着状態に陥った。西部戦線とは、ドイツを中心に見た場合にフランスが西方にあるためにこう呼ばれる。

そうした状況下にあった1916年、連合軍はドイツ軍の塹壕線を突破すべく作戦の実施を決定した。攻勢予定地点はイギリスとフランスの担当区域の中間にあるという理由でソンムとされ、この攻勢にはフランス軍が40個師団、イギリス軍が25個師団を投入する予定となった。国や時代によって異なるが、師団は大規模戦闘における編成単位としては1,000人単位の兵員を擁する大きなものである。

ソンムの戦い


※イギリス軍の作戦計画(1916年7月1日時点)

連合国の塹壕(赤)全面から攻撃を加え、ドイツ軍の塹壕(青)を突破し、ドイツ軍の第二防衛線となっている塹壕(青い点線)まで進むという計画である。

しかし、同年2月、連合軍の作戦が実行に移されるより先に、フランス軍のヴェルダン要塞へのドイツ軍の攻勢が開始されてしまった。そのため、ソンムへの攻勢が急がれた。しかし、フランス軍はヴェルダン救援のために戦力を割かねばならず、予定した投入兵力40個師団がわずか5個師団に減ってしまい、イギリス軍も19師団に縮小されてしまった。

6月5日、予備も含めて12個師団がいたドイツ軍塹壕戦に対する攻勢は、敵の防御対象を弱らせる砲撃を開始してドイツ砲兵を圧倒した。

連合軍は砲兵の支援を受けながら進行を開始するが、ドイツ軍の塹壕線は想定よりも守りが固く、さらに予備部隊の反撃も激しかった。そのため、連合軍の進撃ははかどらない。

特にイギリス軍は初日で2万人近い戦死者を出すほどに苦戦し、塹壕線の第一線を突破するのがやっとという状態だったのである。

Mark.Ⅰ


※ソンムの戦いに展開するマークI戦車「雄型」

苦戦を強いられながらも攻撃が続行されていた9月、イギリス軍の前線に奇妙な形をした機械が姿を見せた。

それは敵の塹壕を突破する目的でイギリス軍が開発した新兵器、「戦車」である。

Mark.Ⅰ(マーク1)と名付けられたこの世界初の実用戦車には、鉄条網を踏み潰し塹壕を乗り越えるために、アメリカのホルト社(現キャタピラー社)が実用化した無限軌道(キャタピラ)が車体の全長にわたって装着されていた。

車体は装甲に覆われその側面に張り出した砲郭(戦闘室)には砲や機関銃が装備されていた。

このMark.Ⅰには二種類あり、6ポンド砲と機関銃を装備したものを雄型、機関銃のみを装備したものを雌型と呼んでいた。現在の戦車とは違い砲塔はなく、左右の砲郭から攻撃するようになっている。

二種類存在するのは、雄型がその搭載砲で敵の機関銃座等を破壊し、その雄型を破壊するために近寄ってくる敵歩兵を雌型が機関銃で撃ち払おうという運用のためだと思われる。

このMark.Ⅰ戦車は9月15日から開始されたフレール方面での攻撃に投入されたが、実際に攻撃に参加できたのは19両である。

それでも、その見慣れない物体の進撃はドイツ兵にパニックを起こさせ、イギリス軍はフレール攻略を成功させた。

戦車の開発とチャーチル


※ウィンストン・チャーチル

近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。さらに、第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。これを乗り越えられなければ進軍できない。

このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。

これはアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。

イギリスでは、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship/ランドシップ) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始される。

もちろん、チャーチルとは第二次世界大戦期においてイギリス首相を務めたあの人物であった。

戦車による戦果


※Mark.Ⅰの原型となったリトル・ウィリー

ソンムの戦いにおいて、戦車の投入により広げられた占領地域は幅8km、奥行き2kmでしかなく、戦線全体で見れば微々たるものだった。

その原因は、初期の戦車であるため機械的信用に乏しく、速度も歩兵と同程度だったため機動的な運用ができなかったことにあった。また、運用のノウハウもないために歩兵との連携も噛み合わなかった。

しかし、イギリス軍はその後も戦車の改良を続け、塹壕突破の切り札として攻勢作戦に投入してゆく。
一方、ドイツ軍も約1年後にはA7Vという戦車を実用化し、実戦投入する。これ以降、戦車の開発競争は激化していった。

この戦いの結果を全体的に見てみると、9月末にソンム地方は天候不良で地面が泥だらけとなって作戦困難となったが、英仏連合軍は攻撃を続けた。10月末までにはソンム河北岸地方で一定の成果をみたが、7月以来3カ月にわたる攻撃で消耗激しく、またドイツ軍も他方面の作戦に忙殺され、11月上旬には両軍対峙の形となった。

一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまったのである。いかに西部戦線が苛烈だったかわかる結果であった。

最後に

戦車は第二次世界大戦で爆発的に進化することになる。重戦車、中戦車、軽戦車、豆戦車、駆逐戦車など多様であった。

現在ではそれらの能力を統合した主力戦車(main battle tank、略称:MBT)にほぼ統一されている。

しかし、その起源となったのはこのソンムの戦いだったのだ。

(第一次世界大戦については「第一次世界大戦とは何かについて調べてみた」を参照)

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