前回の記事「【カンボジアの悲劇】ポル・ポトという怪物はいかにして生まれたのか?」では、ポル・ポトがカンボジアの権力を掌握するまでの流れを見てきました。
カンボジア内戦の背景には、シアヌークの綱渡り外交、アメリカ支援のクーデター、そしてアメリカの誤算による共産化の拡大がありました。
ポル・ポトによってプノンペンが陥落すると、目を覆いたくなるような悲劇が繰り広げられます。
今回の記事では、ポル・ポトによる信じられない残虐行為を見ていきたいと思います。
ポル・ポトによる原始共産制の実施
ポル・ポトが支配するカンボジア政権は「原始共産制」とも言える一連の施策を迅速に実行します。
最初の大きな変更は、貨幣の全面的廃止です。今までの経済を根底から覆すものであり、国民の日常生活に大きな影響を与えました。
また仏教を含む宗教活動が全面的に禁止され、多くの寺院が破壊されます。国民の信仰と精神的な支柱を奪うことが目的でした。
教育や医療機関も廃止され、国民は基本的なサービスや情報へのアクセスを失なってしまいます。
ポル・ポト政権によって国民は共同農場に所属させられ、農民としての生活を強制されます。共同農場での収穫物や財産は国のものとされ、個人の所有権は否定されたのです。
国民全員に黒い綿の農民服の着用が義務付けられ、個人のアイデンティティを均一化する試みが行われました。
家族の結びつきも意図的に解体され、共同農場の食堂における集団での食事が義務付けられます。
子どもたちは5〜6歳になると親から引き離され、国家による教育を受け「国家の子ども」として育てられました。言い方を変えれば洗脳です。
恋愛も禁止され、党が決めた相手との結婚が強制されます。
家族と引き離されたことへの抗議や、家族の死を悼む行為は「反革命」と見做され処刑の対象とされました。
このような環境の中で、国民は自らの感情を抑え、表に出さないようになります。
ポル・ポトの過激な政策により、カンボジアは社会的、文化的、経済的に大きく変貌しました。
自由と個人主義を奪われた国民は、恐怖と強制の下で生きることを余儀なくされたのです。
知識人の抹殺政策
ポル・ポト政権下のカンボジアでは、知識人に対する厳しい敵視政策が実施されました。
中学校を卒業した者や読み書きができる者、さらにはメガネをかけているだけで「知識人」と見なされ、抹殺の対象になりました。
またポル・ポトは、知識人を見つけ出すために策略を用います。
農村に送られた都市住民に対して「学校を作りたいので、教師だった人は名乗り出てください」と呼びかけたのです。そして名乗り出た者たちはどこかに連れ去られ、二度と戻ってきませんでした。
こうした呼びかけは海外留学生にも及びました。ポル・ポト政権が樹立された際、海外の留学生に帰国を促したのです。「祖国のために力を貸してほしい」というメッセージに応えた留学生たちは、帰国後すぐに処刑されました。その中には日本から帰国した留学生も含まれていました。
興味深いことですが、ポル・ポト自身とその仲間たちは、フランス留学経験がある「知識人」でした。しかし、ポル・ポトらは自身の経歴と矛盾する知識人抹殺計画を推進したのです。
この結果として、カンボジア国内では読み書きができる国民が減少し、識字率は極端に低下しました。
ポル・ポト政権は「ものごとを知り、自分の頭で考える」能力を持つ人々を邪魔な存在と見なし「肉体労働こそがすべての基本」とする原始共産制の思想をなによりも重視したのです。
このような政策により知識と教育の価値が軽視され、カンボジア社会に深刻なダメージがもたらされる結果になりました。
農業政策の失敗
また農村部での無理な農業政策によって、大規模な飢餓が引き起こされました。
ポル・ポト政権は人海戦術を用いて堤防や用水施設、ダムの建設を行いましたが、これらのプロジェクトは専門知識を持たない素人による思いつきでした。
農業の生産性も落ち、自然破壊にもつながりました。
国民は過酷な条件下で働かされ、早朝から深夜までの長時間労働が強いられます。彼らに提供された食事はわずかなおかゆのみで、病気になっても働かされ続け、多くの人々が命を落としました。
ポル・ポト政権は非現実的な生産目標(ノルマ)を設定していました。1ヘクタール当たり3トンの米を生産するよう命令しましたが、この数字はカンボジアの平均収穫量の約3倍にあたります。新しい技術や肥料、農薬を使わずに「革命的情熱」によって達成できるとしたのです。
ポル・ポトの方針は、かつて中国で行われた「大躍進政策」を模倣したものでした。
農業に関する専門知識を持たないポル・ポト幹部の指導下で、国民は無理な目標を強制され続けます。
とくに都市部に住んでいた「新住民」は“敵”として扱われ、病気になっても放置された結果、大半の人は死んでしまいました。「知識人や新住民は田んぼの肥やしになるしか役に立たない」という残酷な言葉が飛び交ったそうです。
あまりに無謀とも言える農業政策によって米の生産量は激減。さらに農民に必要な食糧用の米も取り上げられて中国に輸出されたため、豊かな農業国だったカンボジアに大規模な飢餓が広がります。
ポル・ポトの悪魔のような政策は、カンボジアの農業と国民生活に甚大な影響を与え、深刻な食料危機を引き起こしたのです。
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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