前回の記事「【サダム・フセインの野望】 なぜイラクはクウェートに侵攻したのか?」では、イラクのサダム・フセインが台頭した「イラン・イラク戦争」と「クウェート侵攻」を見てきました。
【サダム・フセインの野望】 なぜイラクはクウェートに侵攻したのか?
https://kusanomido.com/study/overseas/79965/
冷戦終結後の新しい国際秩序の形成を象徴する出来事として、1990年のイラクによるクウェート侵攻、そして湾岸戦争はとても大きな意味を持っています。
サダム・フセインによる一連の行動は大きな誤算を招き、かえって国際社会の結束を強める結果となりました。
国連を中心とした国際社会の迅速な行動は、冷戦時代には考えられないほどの速さで進展します。アメリカとソ連の共同声明はその象徴であり、多国籍軍の結成も冷戦終結によって可能になったと言えるでしょう。
今回の記事では、サダムフセインの誤算について詳しく見ていきたいと思います。
湾岸戦争時、イラクはイスラエルを攻撃しています。
しかし「イスラエルへの攻撃によってアラブ諸国の支援を得る」という、フセインの狙いは完全に失敗し、かえって国際社会の反発を招いてしまいました。
イラクが冷戦終結後の状況変化を見誤った証拠でもあります。
またアメリカが中心となって結成された、多国籍軍(連合軍)への参加国とその規模についても見ていきます。
28カ国から成る連合軍は前代未聞の規模であり、冷戦終結による国際関係の進展がなければ、多国籍軍の結成は不可能だったと言えるでしょう。
冷戦終結と米ソの共同声明
サダム・フセインの野望は、冷戦終結という大きな転換点の中で、大きな誤算を招く結果となりました。彼が計画したクウェート侵攻は新しい国際秩序において、むしろ世界中を一致団結させる事態となったのです。
この団結を示す出来事として、アメリカのジェームズ・A・ベーカー国務長官と、ソ連のエドアルド・シェワルナゼ外相が、イラクの行動を強く非難しています。
イラクのクウェート侵攻直後、モスクワで会談していたベーカーとシェワルナゼは共同声明を発表。イラクを厳しく批判しました。
この共同声明は、長年にわたる冷戦の敵対関係を超えた協力の一例であり、シェワルナゼは「これは私たちにとって厳しい決断だった」と述べています。
イラクとの長い友好関係にもかかわらず、ソ連がこのような立場を取ったことは大きな注目を集めました。
国連の迅速な対応
国連はイラクの侵攻を非難する決議をすぐにまとめ上げ、多国籍軍の結成へと進みました。冷戦時代であれば、おそらくソ連は反対し、国際的な行動の妨げとなっていたでしょう。
しかし冷戦終結後の新しい国際秩序の下では、ソ連は反対せず、さらにアメリカに軍事情報を提供するという前例のない行動に出ました。
これらの出来事は、冷戦の終結が国際的な団結を促進し、イラクに対する一致した立場を可能にした事実を示しています。イラクの侵攻は、冷戦後の新しい世界秩序の形成を明らかにしたのです。
1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻した直後、国連安全保障理事会はイラク軍の無条件撤退を求める決議を採択しました。
この決議は侵攻当日に出されています。続いてイラクに対する経済制裁を含む、一連の非難決議が迅速に出されました。
11月29日、国連安全保障理事会は上記決議の後続として、決議678を採択しました。
この決議は「イラクがクウェートから完全に撤退しなければならない」という条件になり、クウェートの主権と国際法の遵守を確保するために「必要なあらゆる手段」を使うことが許可されます。
この表現は「武力行使を含むあらゆる措置を採ることができる」という意味になり、イラクに対する最後通告でもありました。
イスラエルに対するイラクの戦略
クウェート侵攻から10日後、フセイン大統領はイラク軍の「撤退」条件として、イスラエルの占領地(パレスチナ)からの撤退を要求しました。
これは、イスラエルが1967年の第三次中東戦争から占領している地域、すなわちガザ地区、西岸地区、およびゴラン高地からの撤退を意味しています。
フセインの狙いは、クウェート侵攻を「アラブ対イスラエルの問題」にすり替え、アラブ諸国の支持を集めようとする戦略でした。
PLO(パレスチナ解放機構)はすぐにイラク支持を表明しましたが、アラブ諸国の多くはイラクの提案を無視し、PLOへの資金援助を停止しています。
湾岸戦争が勃発
湾岸戦争が始まると、イラクはイスラエルを戦争に引きずり込むことで、アラブ諸国の支持を集めようとしました。
スカッドミサイルをイスラエルに向けて発射し、多数のイスラエル市民が死傷しました。
「イスラエルが反撃すれば、アラブ諸国がイラク支持に回る」とイラクは考えましたが、アメリカの説得によりイスラエルは反撃を控えています。
この戦略はイラクの計画通りには進まず、多国籍軍の結束を乱すことはありませんでした。
多国籍軍の規模と構成
アメリカのブッシュ(父)大統領は、中東への軍隊派遣をすぐさま決定。イギリス、フランスなどの国々からの支援を得て、多国籍軍の結成に向けて動きます。
中東地域では反アメリカ感情が根強かったため、多国籍軍への直接参加を避けたアラブ諸国は「アラブ合同軍」を立ち上げ、サウジアラビアのスルタン中将が司令官に任命されました。
多国籍軍にはアラブ合同軍を含め28か国が参加し、地上作戦開始直前には合計で約84万4650人が湾岸地域に展開されました。
このうちアメリカ軍が約53万2000人で、中心的な役割を担っています。
アメリカは国内の部隊だけでは十分な数を確保できなかったため、ドイツに駐留していた部隊も投入されました。
この動きは、冷戦終結後における国際政治の変化を象徴する出来事でもあります。西ヨーロッパに対するソ連や東ヨーロッパからの脅威が減少したことで可能になったからです。
多国籍軍の結成と展開は、冷戦後の新たな国際秩序に基づく協力と連携から生じた出来事でした、
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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