毎年7月、祇園祭(ぎおんまつり)一色に彩られる京都。
メインの山鉾(やまぼこ)巡行をはじめ、宵山(よいやま)など、様々な神事・行事が、古都京都を舞台に繰り広げられます。
祇園祭は、もとは祇園御霊会・祇園会と呼ばれ、869(貞観11)年に疫病が流行した際、その退散を祈願して、長さ2丈程の矛を66本を立て、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったことに起源を持つ、八坂神社の祭礼です。
今回は、そんな祇園祭を1,000年以上にわたり支え続けた京都の「町衆」が暮らした室町・鉾町界隈を紹介しましょう。
特に、町衆の残した重厚で貴重な京町家や、祇園祭にまつわる会所は、今も力みなぎる町衆の息吹を感じることができます。
目次
地域ごとに自治を行った京都の「町衆」とは
京都には天皇・貴族・武士などの支配層だけでなく、その都市機能を支えた多くの町人が暮らしていました。
産業が著しい発展を遂げた室町時代になると、日本各地に商人や手工業者による自治組織が発生します。
彼らは豊かな資金力を持つ商工業者で「町衆」と呼ばれ、集団で組織を作り支配を行いました。
しかし、京都の「町衆」は、同じ自治都市の堺や博多とはやや性格が異なっています。それは、酒屋・土倉などの商工・金融業者に、公家・武家の家来も加わり「町衆」を形成した点にありました。
彼らは支配する町名を冠して「室町衆」「三条町衆」などと呼ばれ、京都を地域ごとに分けて自治を行ったのです。
京都の歴史を振り返ると「町衆」の果たした役割は、とても大きなものがあります。
特に1467(応仁元)年に起き、京都の大半を焼け野原にした応仁の乱の後、荒廃した京都の復興は、彼らなくしては叶いませんでした。
このように、戦乱の中で途絶えた京都の文化復興は、「町衆」最大の功績といってもよいでしょう。
彼らは、日本三大祭の一つ「祇園祭」を再開させ、さらに京都に伝わる様々な年中行事の継承も行いました。
また、芸術の面においても茶道・華道・能楽の担い手として活躍。客の前で茶を点ててもてなすという、茶道のスタイルは「町衆」によって完成されたものだったのです。
それでは、室町・鉾町界隈に残る町家めぐりに出かけましょう。
ホテルという形で保存された「伴家住宅」
「伴家住宅」は、日本画の大家、池大雅の墨絵が棚の天袋・地袋に貼られた主室と、数寄屋風の座敷を持つことで有名な明治初期に建てられた表屋造りの京町家。京都市有形文化財に指定されます。
現在は、元の造りを最大限に活かしてリニューアルを行い、ガンデオホテルズとして営業しています。
宿泊してその魅力を体感するのもよいですが、事前に連絡すれば内部見学も可能とのことです。
危機から逃れ保存が叶った「くろちく 八竹庵」
江戸時代後期に荻野元凱が医院として建てた建物があった地に、1926(大正15)年に豪商の4代目井上利助が、元の建物の意匠そのままに洋間を加えて新築した大塀造りの大型町家が「旧川崎家住宅・紫織庵」であった「くろちく 八竹庵(はちくあん)」です。
和室は数寄屋大工の棟梁である上坂浅次郎、洋室はアールヌーボーを日本に紹介した建築家・武田五一の設計で、京都市指定有形文化財にしてされています。
この貴重な建築物は、数年前に外資系企業に買収され、取り壊しの危機に瀕しました。
しかし、京文化の継承をテーマに伝統意匠建築設計・町家再生など手掛けてきたくろちくが、歴史的価値の高い姿の存続を願い、「くろちく 八竹庵」として存続させています。
明治初年の貴重な建物「笋町会所(孟宗山)」
笋(たかんな)町は、祇園祭で孟宗山(別名筍山)を出す町内です。
中国の親孝行の説話の一つである孟宗の雪中に、季節外れの筍を見つける話を題材にした孟宗山は、近代日本画の先駆者である竹内栖鳳の筆の孟宗竹図を見送りにすることで有名。
その会所は、1868(明治元)年建築の土蔵・地蔵堂と、1897(明治30)年建築の会所家からなり、いずれも路地の奥まった場所にまとまっています。
江戸後期の土蔵「天神山町会所(霰天神山)」
祇園祭で、霰天神山を出す天神山町の会所。
1868(明治19)年頃の建物とされる会所家は、10畳の座敷に釣床が設けられ、江戸後期の土蔵には天神祠が安置されています。
霰天神山の見送りは、16世紀末から17世紀初頭にベルギーのブリュッセルで作られた、ホメロスの叙事詩トロイア戦争物語のタペストリー5枚組の一つ。
現在のものは、傷んだため2009(平成21)年に復元新調されたものですが、文化財としての貴重な姿を今に伝えてくれます。
会所の姿を伝える「小結棚町会所(放下鉾)」
1867(慶応3)年建築の会所家と、その奥の184(嘉永2)年建築の土蔵からなるのが小結棚町会所です。
祇園祭では、土蔵の2階から会所家の2階の裏縁にかけて、長い渡廊が架けられることで知られます。
会所家の1階天井には、2階から直接鉾の上に渡るための廊下、つまり飛行機や船のタラップのようなものが収納されていますが、かつては、このような形式が祇園祭町会所の典型でした。
現在はほとんどが失われ、貴重な存在になっています。
市内最大規模の京町家「杉本家住宅」
杉本家は、京都市内最大規模の町家建築として知られ、国の重要文化財に指定されます。
同家は、1743(寛保3)年創業の呉服商の奈良屋の店舗兼住宅として建設されましたが、1864(元治元)年の大火により蔵を残して類焼。
1870(明治3)年4月に6代目当主が上棟し、現在の形となりました。
現在は、財団法人奈良屋記念杉本家保存会が管理し、年中行事の公開や、年3回の企画展、特別一般公開など様々な形式での公開がなされています。
祇園祭では、矢田町の町会所の代わりとして、伯牙山のお飾り所に店舗棟が使用され、屏風祭も豪華な展示が行われます。
大型の呉服商の町家「長江家住宅」
1868(慶応4)年建築の北棟と、1907(明治40)年建築の南棟からなる表屋造の京町家が、長江家住宅です。
慶応年間から大正まで増築を繰り返した間口7間、奥行き30間、明治広さは200坪(約700平方メートル)という大型の呉服商の町家で、京都市指定文化財に指定されます。
この町家には建物だけでなく、明治以降の商売の道具や生活用品など貴重なものが残されています。
現在、立命館大学と民間企業が保存と活用について提携して活動を開始。
多くの貴重な京町家が失われていく現在にあって、今後に期待がもてる町家の一つです。
食事をしながら内部見学ができる「泰家住宅」
泰家(はたけ)住宅は、元治の大火により焼失し、1869(明治2)年に上棟された薬商の町家で、京都市の有形文化財に指定されます。
間口5間の表屋造りで、通り庭があり、中庭・奥庭・土蔵を持つ典型的な京町家の形式を伝えている建物です。
この町家は、完全予約制・1日1組限定で料理をいただきながら内部見学ができます。
まとめにかえて・いま京都に必要なこと
室町・鉾町界隈の京町家を紹介しました。このエリアには、この他にも個人の住居や店舗などに使われている町家もあります。
しかし、いま京都では、貴重な町家がどんどん取り壊されています。
そしてその跡地には、インバウンド対応のホテルやマンションが立ち並ぶといった現状があるのです。
近い将来、京都から古い街並みが消え、ビルだらけの街に変貌してしまうかもしれません。そうなる前に、残された町家保存と街の景観保全が必要です。
祇園祭の時期だけでなく、ぜひ京都に足を運んで、京町家の素晴らしさと、その危機的な現状を体感していただければ幸いです。
●伴家住宅 https://www.candeohotels.com/ja/kyoto-rokkaku/
●くろちく 八竹庵 https://www.kurochiku.co.jp/hachikuan/
●笋町会所 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000189312.html
●天神山町会所 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000189312.html
●小結棚町会所 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000189312.html
●杉本家住宅 https://www.sugimotoke.or.jp/
●長江家住宅 http://www.nagaeke.jp/
●泰家住宅 https://www.hata-ke.jp/
※参考文献
高野晃彰編・京あゆみ研究会著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド』 メイツユニバーサルコンテンツ刊 2022.5
文 / 高野晃彰
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