城,神社寺巡り

東大寺と薬師寺を守護する神社は、なぜ「八幡宮」なのか?

世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成要素である、東大寺と薬師寺には、境内の側に寺院を守護する神社(八幡宮)が鎮座しています。

東大寺を守護するのが「手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)」で、薬師寺を守護するのが「休ヶ岡八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)」です。

今回は、この二つの神社がどのような経緯で造られ、なぜそろって八幡宮となったのかを探っていきます。

八幡宮とは

画像 : 宇佐神宮南中楼門 wiki c Sanjo

八幡宮とはどのような神社なのかを、最初に整理しておきます。

全国にはおよそ八万から十一万の神社があるとされ、そのうち約四万四千社が八幡宮です。
これは日本で最も数の多い神社であり、広く信仰を集めてきました。

その総本社にあたるのが大分県の宇佐神宮です。

もとは御許山の磐座信仰を背景に、大神比義命ら神職の氏族が祀っていた神に由来すると考えられますが、やがて応神天皇の御霊と結びつけられ、八幡大神として崇敬されるようになりました。

八幡信仰は、天皇家とのつながりを持ちながら、大陸から伝わった仏教文化と日本古来の神道が結びついた点にも特色があります。

いわゆる「神仏習合」が早くから進んだ代表例であり、この要素が奈良時代の大寺院に八幡宮が勧請される背景となりました。

鎌倉時代以降には武家がこぞって八幡信仰を守護神としたため「武士の神」という印象が強まりましたが、本来は神仏習合や朝廷との関係に根ざした側面をもっています。

現在、八幡宮では応神天皇を主神とし、比売大神(宗像三女神)と神功皇后をあわせた三柱を祀るのが基本です。

さらに、仲哀天皇や仁徳天皇を加えて祀る神社もあり、地域や由緒によって祭神の組み合わせに違いが見られます。

東大寺を守護する「手向山八幡宮」

画像:東大寺大仏殿 筆者撮影

奈良を代表する寺院といえば、廬舎那仏(大仏)で有名な東大寺です。

大仏殿のあるエリアの東側には、お水取りで知られる二月堂や、法華堂(三月堂)が建ち並んでいます。

その南端に位置するのが、東大寺の鎮守として祀られた「手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)」です。

画像:手向山八幡宮 筆者撮影

手向山八幡宮の創建については、次のように伝えられています。

724年に第45代・聖武天皇が即位すると、天然痘の流行(737年)や大地震(745年)といった災厄が続き、仏教に「国家安泰」の願いを託しました。

そのため、741年には全国に国分寺の建立を命じ、743年には東大寺の廬舎那仏(大仏)の造立を進めます。

この大仏造営の過程で、宇佐八幡宮の禰宜尼が八幡神の神託を受け、朝廷に伝えたとされます。
その神意を受けて、749年に宇佐八幡宮を勧請し、東大寺の守護神として手向山八幡宮が創建されました。

その後、治承4年(1180年)の南都焼き討ちで社殿は焼失しましたが再建され、建長2年(1250年)には北条時頼によって現在地に遷座しました。

さらに明治時代の神仏分離によって東大寺から独立し、現在は神社として存続しています。

薬師寺を守護する「休ヶ岡八幡宮」

奈良市の西ノ京と呼ばれる地には、世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成要素の一つである薬師寺があります。

画像:薬師寺の金堂と左右の三重塔

薬師寺の境内南側には、その鎮守として「休ヶ岡八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)」が鎮座しています。

創建は寛平年間(889~898年)と伝えられ、薬師寺別当の栄紹法師が宇佐八幡宮から勧請し、薬師寺を守護する神社として祀られました。

画像:休ケ岡八幡宮 筆者撮影

「休ヶ岡」という地名は少し独特ですが、その由来はさらに古い時代にさかのぼります。

平安時代、行教和尚が石清水八幡宮を大安寺に勧請した際、八幡神がこの地で休息したと伝えられ、その故事が地名となったといわれています。

祭神は八幡大神・姫大神・神功皇后の三柱で、現在の社殿は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼が寄進したものです。
社殿は重要文化財に指定され、歴史的価値を持つ建築として今も残されています。

明治時代の神仏分離により形式上は独立した神社となりましたが、薬師寺との関わりは途絶えていません。

薬師寺の法会に先立って僧侶が参拝するほか、休ヶ岡八幡宮の祭礼では僧侶が神前読経を行うなど、古代からの神仏習合の伝統を今に伝えています。

寺院を鎮守する神社が「八幡宮」である理由

画像:宇佐八幡宮(1928年) public domain

先にも触れたように、宇佐神宮は早くから神仏習合が進み、寺院と一体で信仰が広がっていきました。

祭神が応神天皇であること、そして奈良時代の大寺院が朝廷と強く結びついていたことも、八幡宮が寺の守護神として勧請される大きな理由になりました。

奈良時代の中心人物であった聖武天皇が756年に崩御したのち、770年に称徳天皇、775年に井上内親王が相次いで亡くなり、聖武天皇の直系が断たれて政情が不安定になりました。

天災も重なったため、当時は祟りを恐れる声が広がったと伝えられます。

こうした不安を鎮めるため、八幡神は聖武天皇と一体視され、天応元年(781年)には八幡大菩薩の号が与えられて仏教の守護神と位置づけられました。これが各地に広がる八幡菩薩信仰の基盤になったと考えられています。

東大寺の「手向山八幡宮」や薬師寺の「休ヶ岡八幡宮」は、こうした歴史を背景に生まれた鎮守であり、神と仏が響き合う日本独自の信仰の姿を今に伝えているのです。

参考 : 『続日本紀』『宇佐神宮公式HP』『薬師寺公式HP』他
文:撮影 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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