6世紀の東ローマ帝国で、劇場の踊り子として生計を立てていた女性が、皇后の座に就きました。
彼女の名はテオドラ。
テオドラは、皇帝ですら動揺した暴動「ニカの乱」でも毅然とした態度を貫き、国政にも深く関与しました。
今回は世間の常識を覆し、歴史に名を刻んだテオドラの生涯をたどってみます。
最下層の遊女
当時の東ローマ帝国において、いわゆる「見世物」に関わる職業は社会的に低く見られていました。
軽業師、動物の調教師、無言劇の俳優などは民衆の娯楽として人気がありましたが、上流階級にとっては彼らと親しくすることは恥ずべきことと考えられていたのです。
495年頃、テオドラはこのような環境の中で生まれました。
父アカキウスは競馬場で熊使いをしており、彼が亡くなると、母は再婚しましたが、新たな継父もまた熊使いの職を継ぐことになります。家庭は経済的に不安定であり、テオドラは幼い頃から厳しい環境で育ちました。
成長した彼女は舞台の世界へと足を踏み入れ、姉とともに踊り子として活動するようになります。当時の社会では、踊り子は見世物の中でも特に低い地位にあると見なされ、合法的な結婚すら許されていませんでした。
後に歴史家プロコピオスは、テオドラについて「舞台女優であっただけでなく、売春にも関与し、最下層の遊女であった」と記述しています。
また、同時代のキリスト教史家・ヨハネス・エフェソスも、テオドラの出自を「売春宿出身」と記していますが、ここで使われる「pornae(売春婦)」という言葉は「舞台女優」を指す場合もあるため、彼女の過去をどのように解釈するかは依然として議論の余地が残されています。
身分差を乗り越える
そんなテオドラでしたが、525年、当時の皇帝ユスティヌス1世の甥であり、皇位継承者と目されていたユスティニアヌスと出会ったことで運命が大きく動き始めます。
ユスティニアヌスは、テオドラを一目見るやいなや、彼女の虜となってしまったのです。
しかし、二人の間には大きな壁が立ちはだかっていました。それは、身分差による世間の反発と法律の制約でした。
前述した歴史家プロコピオスは、テオドラの出自を批判する一方で、「彼女は色白で美しく、尊大で真っ直ぐなまなざしを持っていた」とも記しています。また、彼女は外見の美しさだけでなく、機知に富んだ発言や鋭い洞察力を備えた女性であったとされています。
ユスティニアヌスが魅了されたのは、そうした内面の才気にもあったのかもしれません。
しかし、当時のローマ法では、上流階級の男性が舞台女優や元女優と結婚することは禁止されていました。
特に、皇帝ユスティヌス1世の妻である皇后エウフェミアは、自身が解放奴隷出身で、かつては兵士らの相手をする女性であったにも関わらず、このの結婚を認めようとしなかったと伝えられてます。
ところが間もなく、この皇后はこの世を去ってしまいます。
皇后の死後、ユスティニアヌスは皇帝ユスティヌス1世を説得し、法律を改正させました。
結婚に至るまでには批判もありましたが、最終的に元老院や軍部、教会、民衆の間では、公然と反対する声は少なくなりました。
こうして525年、身分の壁を越えたテオドラは、ついに皇帝の伴侶として新たな人生を歩み始めたのです。
皇帝と共に戴冠
527年、ユスティヌス1世が77歳で崩御すると、甥であり共同統治者であったユスティニアヌスが正式に皇帝に即位しました。
しかし、皇帝の冠を戴いたのは彼一人ではありませんでした。その傍らには、伴侶であるテオドラもいたのです。
即位の儀式において、テオドラはユスティニアヌスとともに戴冠し、「アウグストゥス(皇帝)」の女性形である「アウグスタ(皇后)」の称号を授けられました。
これは単なる名誉ではなく、ローマ帝国の歴史において皇后が国家運営に正式に関与することを示すものであり、テオドラの地位が単なる皇帝の配偶者にとどまらないことを意味していました。
低い身分出身の彼女が、名実ともに帝国の頂点に立ったのです。
結婚後のテオドラの貞淑ぶりは非の打ちどころのないものでした。テオドラがそのまま控えめな女性でおさまっていたのなら、元老院の貴族たちもそれ以上異を唱えることはなかったでしょう。
ところが国家の頂点に上りつめたテオドラは、皇后の権威を高めるために、あらゆる要求を周囲に命じるようになります。
例えば、昇殿を許された高官らは、皇帝に対する崇敬の作法を、皇后にも行うように求められました。皇帝の緋色の靴への口づけは、同じく皇后にもするように課せられ、彼女につき従うしもべの数と行列の豪華さは目を見張るばかりでした。
テオドラの姿はコインにこそならなかったものの、印璽やモザイク画で大量に描かれ、広まっていきました。
それでも統治が始まってからの数年は、テオドラの成り上がりぶりに眉をひそめる一部の貴族の怨恨を除き、穏やかに過ぎていったのです。
つのる民衆の不満
しかし民衆の間では、かねてからの重税への不満と干ばつからの食糧難が重なり続け、次第に怒りがつのっていました。
こうした不満が爆発したのが、532年1月に起きた「ニカの乱」です。
この暴動の発端となったのは、当時コンスタンティノープルで人気を誇っていた戦車競走の派閥「青派」と「緑派」の対立でした。これらの派閥は単なるスポーツチームの応援団ではなく、時に政治的な影響力を持ち、宮廷とも密接な関係を築いていました。
当初の争いは、戦車競走をめぐる派閥間の衝突に過ぎませんでしたが、やがて暴動へと発展したのです。
両派の暴徒たちは市内で放火や略奪を繰り返し、ついには皇帝に対する蜂起へと変貌していきました。
暴徒たちは戦車競走の際に叫ばれる「ニカ(勝利せよ)!」の掛け声とともに宮殿前に集結し、大臣たちの解任を迫ったのです。
皇帝を奮起させて大逆転
コンスタンティノポリスの街は灰に包まれ、混乱の渦に飲み込まれていきました。
包囲された宮殿の中に引きこもっていたユスティニアヌスは、ついに福音書を片手に民衆の前に姿を現し「平静さを取り戻しさえすれば、誰も罰することはしない」と呼びかけました。
しかし、群衆から返されたのは罵声だけでした。
事態の収拾に行き詰まった皇帝は、ついに都から船で脱出を試みようとしますが、皇后テオドラはこう言い放ったのです。
「この世に生まれた以上、人は死を避けることはできません。もしあなたが逃げたいのであれば、逃げれば良いでしょう…しかし、わたくしは『緋色の帝衣は美しい死装束である』という格言が好きなのです」
この言葉に、ユスティニアヌスをはじめとする宮廷の人々は衝撃を受けました。皇帝は決意を固め、徹底抗戦を命じます。
彼は将軍ベリサリウスとナルセスに鎮圧を指示し、宮殿近くの競馬場に集結していた暴徒たちを一斉に攻撃させました。その結果、最終的に三万人以上が犠牲となり、反乱はようやく鎮圧されたのです。
この反乱の中で、暴徒たちは元老院議員ヒュパティウスを皇帝に担ぎ上げ、帝位簒奪を企てていました。
当初、ユスティニアヌスはヒュパティウスに恩赦を与えようと考えていました。しかし、テオドラはそれを許さず、最終的にヒュパティウスは処刑されました。
こうしてテオドラは、単なる皇帝の伴侶ではなく、危機に瀕した帝国を救った存在として、その名を歴史に刻んだのです。
その後もユスティニアヌスの治世を支え続けましたが、548年に病に倒れ、その生涯を閉じました。(※推定50代前半)
比較的短い人生ではありましたが、テオドラの存在は一国の命運を左右するものだったのです。
参考:
『ロイヤルカップルが変えた世界史 上:ユスティニアヌスとテオドラからルイ一六世とマリー・アントワネットまで』/ジャン=フランソワ・ソルノン (著),神田 順子(翻訳),松尾 真奈美(翻訳),田辺 希久子(翻訳)
文 / 草の実堂編集部
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