明治政府主導で創建された神社
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画像 : 伊勢神宮内宮正殿 wiki c Ocdp
国の統治システムを中央集権体制とした明治新政府は、祭政一致の政策を打ち出し、神道を天皇崇拝に則った国教として再構築した。
奈良時代から江戸時代まで続いた神仏習合を廃止し、神道を仏教の影響を受ける前の姿に戻すため神祇官を再興。
同時に神社から仏像・仏具・仏語を除去し、権現・牛頭天王・菩薩などの仏教的な神号を廃止し、仏教色の強い神社では主祭神の変更を強要した。
これにより起こった「仏法を廃し、釈迦を破却する」いわゆる廃仏毀釈運動は、数年にわたり日本全国で吹き荒れ、仏教界に多大な損失を負わせることになる。
一方で国教としたはずの神社にも厳しかった。
1871(明治4)年、神社を「国家の宗祀」とする布告を発し、新たな社格制度を交付した。
社格の細かい説明は省くが、全国の神社を「官幣社(大社・中社・小社・別格)」「国幣社(大社・中社・小社)」「府社」「県社」「郷社」「村社」「無格社・小社」に分別したのだ。
そして、「官幣社」「国幣社」を官社、それ以外を諸社として全ての神社の頂点を伊勢神宮と定めたのである。
その後、政府は神社の合理化を図るため、地方の「無格社・小社」の統廃合を強行し、約20万あった神社数が明治期を通じて、ほぼ半数の12万社まで減少した。
ただその一方で、政府は国費・公費を投じて、新たに規模の大きな神社を相次いで創建している。
こうした神社は、その多くが歴史上の「人物」を神として祀る神社だった。
明治以前に人を神として祀った神道
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画像:北野天満宮 wiki.c
明治時代以前にも、歴史上の人物を神として祀った神社は存在した。
政争や戦乱で落命したり、配流などにより失意のうちに非業の死を遂げた人を怨霊として畏怖し、御霊として祀ることで、その祟りを鎮める「御霊信仰」。さらに吉田神道や山王一実神道の「人神信仰」などだ。
「御霊信仰」では、菅原道真を祀った北野天満宮。崇道天皇・伊予親王・藤原仲成らを祀った上御霊神社などがある。
また「人神信仰」としては、吉田神道による豊臣秀吉を「豊国大明神」とした豊国神社。山王一実神道による徳川家康を「東照大権現」とした日光東照宮が名高い。
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画像 : 日光東照宮 public domain
だが、明治政府が国家的に創建した神社に祀られる人には、ある特徴があった。
それでは、そうした神社の特徴を「天皇・皇族とその系統の人を祀る神社」「国家に貢献した功臣・忠臣を祀る神社」に分けてみていこう。
天皇・皇族とその系統の人を祀る神社
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画像:白峯神宮 wiki.c
明治以降に創建された「天皇・皇族を祀る神社」の代表として、京都市上京区の「白峰神宮」、奈良県橿原市の「橿原神宮」、奈良県吉野町の「吉野神宮」、京都市左京区の「平安神宮」、東京都渋谷区の「明治神宮」、神奈川県鎌倉市の「鎌倉宮」が挙げられる。
「白峰神宮」の主祭神は、平安末期の保元の乱で讃岐に流され非業の死を遂げた崇徳天皇だ。
天皇の霊が発足間もない明治新政府に祟りをなすことを恐れ、1868(慶応4・明治元)年に急遽創建されたという。平安以降の御霊信仰に基づいての創建の意味もあるだろう。
一方、1868年から1912年までの45年間続いた明治時代の中頃に創建されたのが、「橿原神宮」「平安神宮」「吉野神宮」だ。
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画像:橿原神宮 wiki.c
「橿原神宮」は、初代天皇の神武天皇を祀るため、その即位の地で陵墓があったとされる畝傍山山麓に1890(明治23)年に創建された。
同天皇の実在に関しては、多くの学者が否定的だ。
しかし、明治政府の神権政治は、その神武天皇の時代を再現することにあった。
だから何よりも早く神社を建てる必要があったと思うのだが、実際には、幕末の1863(文久3)年に神武天皇陵の改修・造営が行われてから30年近く経過してからの造営となった。
そこには、何か意図があったのだろうか。
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画像:鎌倉宮 wiki.c
そうした意味では、いち早く創建したのが「鎌倉宮」だ。
同宮は、1869(明治2)年に、明治天皇自ら護良親王を祭神として祀ることを命じたという。
護良親王は、後醍醐天皇の皇子で父帝を扶け各地を転戦。鎌倉幕府の討幕運動に貢献し、建武の新政を成し遂げたが、後醍醐天皇と不和になり鎌倉に配流の後に殺害された。
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画像:吉野神宮 wiki.c
親王の父・後醍醐天皇を祀るのが「吉野神宮」で、1892(明治25)年に創建された。
同神宮は1873(明治6)年に、後醍醐天皇の像を安置していた吉水院を改めて、後醍醐天皇社という神社になり、後に吉水神社と改称した。
明治天皇は北朝系の天皇であったが、その勅裁により南朝を正統と定めた。
そうした意味で、南朝側であった後醍醐天皇と護良親王を主祭神とする神社は重要視されたのではないだろうか。
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画像:平安神宮 外拝殿 wiki c Saigen Jiro
「平安神宮」は、1895(明治28)年に平安遷都1,100年を記念して、京都に都を遷した桓武天皇を祭神として創建された。
当時の京都は幕末の戦乱で市街地が荒廃。さらに東京遷都により人心は大きな打撃を受け、その衰退ぶりは目を覆うものがあった。
同神宮の創建は、京都復興への市民の情熱と、京都に対する思い入れを呼び起こすものであったという。
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画像:明治神宮 public domain
そして、時代は下り1920(大正9)年に、明治天皇を祀る「明治神宮」が創建。
同神宮は、1912(明治45)年の天皇崩御直後から、東京市民たちから「御陵に次ぐものを東京に」との声が挙がり、これに渋沢栄一らの呼びかけで神社創設の誓願が国に提出された。
鎮座地には様々な候補があがったが、最終的に代々木の南豊島御料地が選ばれ、全国から十万本に及ぶ樹木が献木された。
そして、約100年をかけて緑豊かな代々木の杜が完成した。
「明治神宮」は、近代に入って創建された最大級の鎮守の森を有する最大級の神社だったが、その森はいま再開発という名のもとに危機に瀕している。
国家に貢献した功臣・忠臣を祀る神社
国家・天皇に忠節を尽くした人物を祀る神社の代表としては、兵庫県神戸市の「湊川神社」、福井県福井市の「藤島神社」、熊本県菊池市の「菊池神社」が名高い。
いずれも、南朝の忠臣を祭神として祀ることが特徴だ。
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画像:湊川神社 wiki.c
楠木正成を祀る「湊川神社」は、1872(明治5)年の創建。
新田義貞を祀る「藤島神社」は、1876(明治9)年の創建。
そして、九州で南朝のために奮戦した菊池一族を祀る「菊池神社」は、楠木・新田の両傑より先の1870(明治3)年に創建されている。
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画像:菊池神社 wiki.c
その理由は定かではないが、菊池一族が、後醍醐天皇の皇子・征西将軍宮懐良親王を奉じて戦ったことに関係があるのかも知れない。
やはりここでも、南朝というキーワードが効いているようだ。
またこの三社の社格は、「官幣社」の中で「別格」、すなわち「別格官幣社」に属する。
これは、神社はそもそもにおいて神と、天皇・皇族を含む神裔を祀るものであり、忠臣はどんなに国家・天皇に貢献したとしても、あくまで臣下にすぎない。
そうした臣下を官社の祭神とすることに政府内から異論が起き、「別格官幣社」という社格が新たにつくられたのだ。
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画像:護王神社 wiki.c
この他、明治以降に政府主導で創建された神社として、京都市北区の「護王神社」がある。
同社は、奈良朝末期に起きた道鏡事件を阻止した和気清麻呂とその姉・和気広虫を主祭神として祀り、1874(明治7)年に創建。
1886(明治19)年に、明治天皇の勅命により、京都御所蛤御門前の現在地に遷座した。同社も別格官幣社に列せられる。
以上、明治政府が国家的に創建した代表的な神社をあげてきたが、その創建の条件として第一に考えられたのが、天皇・国家への忠誠であった。すなわち、明治政府が推進した国家神道の強化のために創建したと言っても過言ではないだろう。
もちろん、そうした神社に祀られている人物たちは、歴史的にみても魅力あふれる人々で、それぞれが、それぞれの立場でその時代を懸命に生き抜いた。
従って、彼らが歴史上で残した功績や活躍を讃えるために、尊敬の念をもってお参りするのは良いことだろう。
だが、明治以降に創建された神社には、時の政府による思想統制という一面があったことも知っておくべきではないだろうか。
※参考文献
招福探求巡拝の会著 全国一の宮巡拝パーフェクトガイド メイツユニバーサルコンテンツ刊
古川順弘著 神社に秘められた日本史の謎 宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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