魏国で迫害と屈辱を受けた范雎とは
古代中国の戦国時代、拷問を受け、簀巻きにされて厠(かわや)に投げ込まれたのちに、秦の宰相にまで上り詰めた男がいる。
彼の名は范雎(はんしょ)。
彼は、魏で身を立てようとしていた遊説家であり、弁舌に優れていたが、ある出来事をきっかけに運命が大きく狂い始めることとなる。
范雎は魏の中大夫・須賈(しゅか)に仕えていた。
あるとき、須賈の随行員として斉に派遣された際、范雎の弁舌の評判を聞いた斉の襄王が、黄金十斤と牛・酒を贈ろうとした。
しかし、范雎は不必要な疑念を招かぬよう、これを固辞した。
ところが、須賈はこれを不審に思い「范雎は魏の機密を斉に漏らした見返りに、報酬を貰おうとしたのではないか?」と疑い、魏の宰相・魏斉(ぎ せい)に報告した。(范雎に嫉妬したという説もある)
これを聞いた魏斉は激怒し、范雎を捕えさせた。
范雎は何度もむち打ちされ、肋骨を折られ、歯も砕かれるほどの苛烈な拷問を受けた。
さらに簀巻きにされて厠(かわや)へ投げ込まれ、宴席で酔った客たちから小便をかけられるという、屈辱の極みともいえる扱いを受けたのである。
生死も不明な状態にまで追い込まれたが、范雎はこの屈辱の中でも生き延びる術を模索していた。
![](https://kusanomido.com/wp-content/uploads/2025/02/a60746dcbaead32186536a9e2b657b2a-e1739365649108.png)
画像 : 厠の中の范雎(はんしょ)イメージ 草の実堂作成
死を偽装し、秦への逃亡
こうして瀕死の状態となった范雎であったが、彼はこの状況でも希望を捨てなかった。
番人に「私を逃してくれれば、後で必ず礼をする」と囁きかけ、買収することに成功したのである。
その後、番人は「死体を捨ててきた」と偽り、范雎を外へと逃がした。
范雎は逃亡後、魏の知人である鄭安平(てい あんぺい)のもとに身を寄せた。
そして、魏の宰相・魏斉の追及を逃れるために「張禄(ちょうろく)」と名を変えて潜伏する。
ちょうどその頃、秦の昭襄王は、各国の有能な人材を求めて使者を派遣しており、王稽(おうけい)が魏に派遣されていた。
鄭安平は范雎を王稽に引き合わせ、范雎の才覚を売り込んだ。
すると王稽は范雎の才を見抜き、彼を連れて秦へ向かうことを決意したのである。
しかし、秦への道中、范雎は一つの危機に直面した。領地を巡視していた秦の宰相・魏冄(ぎぜん)の馬車に出くわしてしまったのである。
![](https://kusanomido.com/wp-content/uploads/2025/02/f5dfe8aab9ca0dad2b9519e0b2fdede6-e1739367362670.png)
画像 : 尋問を受ける范雎(はんしょ)の馬車 イメージ 草の実堂作成
魏冄は秦国内で絶大な権力を握り、遊説家を嫌っていたため捕らえられる危険があった。
范雎は急いで馬車の中に隠れた。
魏冄は王稽に「関東から変な客を連れてきていないか?」と尋ねたが、王稽がとっさに「いません」と答えたため、范雎は間一髪で逃れることができた。
こうして范雎はようやく秦の首都・咸陽に到着した。しかし、すぐに登用されたわけではなかった。
昭襄王は宰相・魏冄らの専横に不満を抱きつつも、遊説家をあまり信用していなかったためである。
そのため、范雎は約1年間、王稽の庇護のもと、慎ましい暮らしを送りながら、機会を待つこととなった。
昭襄王への進言「遠交近攻の策」
![](https://kusanomido.com/wp-content/uploads/2025/02/ec13c43059211ffae26b56a89b91a35b-e1739366320227.jpg)
画像 : 昭襄王 public domain
当時の秦の宰相・魏冄は、昭襄王の母である宣太后(せんたいこう)の弟であり、彼の一族が秦の権力を掌握していた。
魏冄は白起(はくき)らの名将を使って領土を広げたが、獲得した土地は魏冄やその一族の封地として分配され、王室よりも富を蓄えていた。
范雎は1年以上も昭襄王に謁見できないままであったが、自ら書状を送り、「私の言が役に立つならば用い、不要ならば斬首してください」と直訴した。
これが昭襄王の関心を引き、ついに范雎は謁見の機会を得ることとなった。
そして范雎は、宮廷での対面の際、わざと宦官たちと口論を起こした。
「秦に王などいない。ただ宣太后と穣侯(魏冄)がいるだけだ!」と放言したのである。
これは、秦国内において実質的な権力が太后とその弟に握られていることを皮肉ったものであった。
昭襄王はこれを聞いても怒らず、范雎の言葉に関心を示した。
范雎は、まず昭襄王に対して外交戦略を説いた。
![](https://kusanomido.com/wp-content/uploads/2025/01/431ebe86769cc9fbc4638f7cfd0730e6.jpg)
画像 : 戦国七雄 wiki c Philg88
当時の秦の宰相・魏冄は、韓・魏と結んで斉を攻めようとしていた。
しかし、范雎はこれを批判し「遠国である斉・楚と結び、趙とも協調しつつ、近国である韓・魏を攻めるべきです」と説いた。
これは「遠交近攻の策」と呼ばれ、遠方の国々と同盟を結び、隣接する国々を攻撃することで、秦の領土を拡大しつつ、外交的な安定を確保する戦略であった。
この進言を受け入れた昭襄王は、まず魏を攻めてその領土の一部を奪取し、韓にも圧力をかけた。
そして、范雎の戦略が有効だと判断されたことで、彼の影響力は次第に増していった。
さらに范雎は昭襄王に対し「秦王の権威を確立するためには、太后と魏冄らの勢力を排除すべきです」と進言した。
これにより、昭襄王は次第に魏冄の権力を削ぎ、最終的には宰相の座から退けることとなる。
范雎の「遠交近攻」策は、秦が戦国七雄の中で圧倒的な優位を築く基盤を形成し、後の中国統一の布石となったのである。
宰相就任と復讐の果て
范雎の進言により、秦は韓・魏を圧迫し、領土を拡大していった。
これに満足した昭襄王は范雎への信頼を深め、紀元前266年、范雎はついに秦の宰相の座に上り詰めた。
宰相となった范雎が最初に手掛けたのは、かつて絶大な権勢を誇った魏冄の排除であった。
昭襄王は范雎の進言を受け、まず宣太后を政界から退け、次いで魏冄らを罷免し、彼らを封邑に追放した。
次に范雎が目を向けたのは、かつて自分を陥れ、苛烈な拷問を加えた魏の宰相・魏斉(ぎせい)と須賈(しゅか)であった。
その頃、魏が秦の圧力を受け、須賈が講和の使者として秦に派遣されてきた。
これを知った范雎は、みすぼらしい姿で須賈の前に現れ、まるで自分が落ちぶれたかのように装った。
![](https://kusanomido.com/wp-content/uploads/2025/02/858a97f5ace7f332536a9a0ca6b072e6-e1739370319957.png)
画像 : 須賈と范雎 イメージ 草の実堂作成
先述したとおり、当時、秦の宰相は交代したばかりであり、須賈は范雎がその新たな宰相であるとは夢にも思わなかった。
それ以前に、范雎が生きていたこと自体に驚いただろう。
みすぼらしい姿の范雎を見た須賈は哀れに思い、ともに食事をし、衣服まで買い与えた。
その心中には、過去の行いに対する罪悪感や後悔の念があったのかもしれない。
須賈の旧知の情を感じた范雎は、過去の恨みを抑え、須賈を即座に処刑することは避けた。
しかし、須賈を囚人と並べて屈辱を与えた上で、「魏王に魏斉の首を持参させよ。さもなくば、大梁を血の海にする」と脅迫し、魏へ送り返した。
須賈の報告を受けた魏斉は恐れ、趙の平原君を頼って亡命したが、最終的には自ら命を絶った。
趙は魏斉の首を秦に送り、こうして范雎の復讐は遂げられたのである。
宰相としての功績と晩年
その後、范雎は宰相として、秦の中央集権化を進め、昭襄王の権力を強化した。遠交近攻策によって韓・魏を圧迫し、趙・楚との関係を調整しながら秦の優位を確立した。
しかし、范雎自身もまた権力闘争の渦中にあった。彼が推挙した王稽は、諸侯と通じた罪で誅殺され、恩人であった鄭安平は秦軍を率いた際に降伏するなど、人事面では失敗もあった。
また、名将・白起を排除し、その後の戦局に影響を与えたことも評価が分かれる点である。
晩年、遊説家の蔡沢が范雎に「権力に長く留まるのは危険だ」と説き、范雎はこれを受け入れて引退し、後任には蔡沢が宰相に就いた。
『史記』には范雎が引退して生涯を全うしたとあるが、始皇帝時代の出土史料『編年記』には、昭襄王52年(紀元前255年)に王稽と共に処刑されたとの記述があり、その最期には異説も存在する。
こうして、拷問と屈辱から秦の宰相にまで上り詰めた范雎の波乱の生涯は、幕を閉じたのである。
参考 : 司馬遷『史記』「范雎蔡沢列伝」「秦本紀」他
文 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。