西洋史

【頑張って改革したのに5度の暗殺未遂】最後の爆弾で命を落としたロシア皇帝

ロシア帝国時代、「改革の皇帝」として名を馳せたアレクサンドル2世

彼は農奴解放令をはじめとする大規模な改革を断行し、ロシアの近代化を推進した。
しかし、最終的には自国の過激派によって暗殺されてしまう。

今回は、アレクサンドル2世はなぜ暗殺されたのか、そして彼が行った「大改革」とはなんだったのかを紐解いていきたい。

アレクサンドル2世の半生

画像:アレクサンドル2世 public domain

1818年、アレクサンドル2世は、ロシア皇帝ニコライ1世の第一皇子として誕生した。

幼少期から皇帝となることが運命づけられており、有能な為政者となるために帝王教育を受けた。
教育係には開明的な人物も選ばれ、近代的な統治知識や政治的教養を得た。この教育が、後の「大改革」に影響を与えたと考えられている。

1853年、ロシア帝国とオスマン帝国の間でクリミア戦争が勃発した。

当初、ロシアはオスマン帝国を圧倒できると考えられていたが、翌1854年にイギリスとフランスがオスマン側で参戦すると、戦況は一変する。

産業革命を経た西欧諸国との戦争は、農奴制の国ロシアにとって絶望的であった。

というのも、当時のロシアにはいまだ鉄道がなく、海軍も帆船が主力であったからだ。

画像:セヴァストポリ要塞の陥落 public domain

そんななか、1855年にニコライ1世が崩御し、アレクサンドル2世が皇位を継承した。

しかし、同年にはクリミア半島の要衝セヴァストポリ要塞が陥落し、ロシアの敗北は決定的となる。

戦争が長期化し、連合軍側も消耗が激しくなったことで、最終的に1856年3月にパリ講和条約が締結された。

この敗北はロシアにとって大きな衝撃となり、アレクサンドル2世はロシアの立ち遅れを痛感する。

彼は終戦とともに改革を進める決意を固め、近代化を目指す「大改革」へと乗り出していったのである。

農奴解放令は失敗だったのか

アレクサンドル2世は司法、軍事、教育などの多方面で改革を推し進めた。

その中でも最も画期的かつ影響の大きかった政策が、1861年の農奴解放令である。

画像:『農奴解放令の布告を聞く農民たち』ボリス・クストーディエフ public domain

そもそも農奴制とは、農奴と呼ばれる農民が領主(貴族)から土地を分与され、地代や生産物を納入するという仕組みである。
農奴は職業選択や移動の自由がなく土地に縛られたため、農奴制は自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシアの経済発展を妨げていた。

クリミア戦争で連合国軍との圧倒的な差を認めたアレクサンドル2世は、約2300万人の農奴を解放して近代化を図ろうとしたのだ。

しかし農奴解放令は、結果的に反ツァーリズムをもたらしてしまった。

解放された農奴には元々耕していた土地の一部が与えらえたが、土地の質が悪かった。さらに農村共同体(ミール)による管理が強く、自由な経済活動が制限された。

また、その土地分与が有償であったことも農民を失望させた。
「神様のものである土地を、ツァーリは私たちに与えてくださる」と期待した農民を裏切ることとなってしまったのだ。

その結果、農民たちの経済的に苦しい状況は解放前とほとんど変わらず、改革は反発を招いた。

領主である貴族たちも、同様に不満を募らせた。
農奴解放令により、ロシアの貴族は労働力と土地の一部を失い、経済的に困窮する者が増えてしまったのである。

画像:『ナロードニキの逮捕』イリヤ・レーピン public domain

これらの反発によって、知識人層の革命運動(ナロードニキ運動)が盛んになり、後のツァーリ暗殺事件やロシア革命へと繋がっていくのである。

農奴解放令はロシアの近代化に必要不可欠な急務であったが、やり方が不十分かつ中途半端であった。

もし農奴に十分な土地を無償で与えていたら、もし貴族の利益を守りつつ段階的に改革を進めていたら…アレクサンドル2世は暗殺されずに済んだのかも知れない。

だが、当時のロシアの政治・社会状況を考えれば、それは決して容易な選択ではなかった。

度重なるツァーリ暗殺計画

画像:アレクサンドル2世暗殺事件 public domain

前述したとおり、農奴解放令によって民衆の反発を招いたアレクサンドル2世は、その後、暗殺の危険にさらされることとなった。

最初の暗殺未遂事件は1866年4月。
没落貴族出身の青年が、散歩の日課を済ませたアレクサンドル2世をピストルで撃った。
運よく通行人が青年の腕をおさえたため、銃弾はそれた。

のちに絞首刑となった犯人ドミートリ―・カラコーゾフは、かの有名なドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のモデルになったという俗説もある。

2度目は1867年6月。
フランス・パリ訪問中、ポーランド人アント―ニ・ベレゾフスキーが、皇帝の馬車を銃撃した。
弾は馬に当たり、アレクサンドル2世は無事だった。

3度目は1879年4月。
ナロードニキ運動の流れを汲む革命組織「人民の意志」のメンバー、アレクサンドル・ソロヴィヨフが皇帝を銃撃。
アレクサンドル2世は銃声を聞いて避け、弾は外れた。計5発も発砲したという。

4度目は1879年11月。
「人民の意志」メンバーが皇帝の乗る予定だった鉄道を爆破した。
しかし、実際に皇帝が乗っていたのは別の列車で、皇帝は無事であった。

5度目は1880年2月。
偽造文書で職人として宮殿内に潜入していたステパン・ハルトゥーリンによって、宮殿の食堂が爆破された。
運よくアレクサンドル2世は食堂への到着が遅れたため無傷であったが、兵士11名が死亡し、56人が負傷するという大惨事となった。

そして最後が1881年3月。

「人民の意志」メンバーが、皇帝の乗る馬車に爆弾を投げた。
皇帝は無傷であったが、負傷した兵士を気遣って現場にとどまったため、2発目の爆弾が皇帝の足元に投げ込まれた。

画像 : 死の床のアレクサンドル2世 コンスタンチン・マコフスキー筆 public domain

この爆弾によって皇帝は重症を負い、数時間後に失血死した。

おわりに

ロシアを近代化へと導いた改革の皇帝、アレクサンドル2世。

彼が行った大改革は、当時のロシアに必要不可欠なものであり、資本主義社会への第一歩であったと言えるだろう。

しかし民衆の支持を得ることができず、結果として最後は暗殺されてしまった。

アレクサンドル2世はロシア帝国の最高権力者であったが、同時に揺れ動く時代の犠牲者でもあったのかも知れない。

参考文献
『ロシア史』和田春樹/編
『アレクサンドル2世暗殺』エドワード・ラジンスキー/著
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部

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小森涼子

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