
画像 : 京都町並み pixabay
歴史の中には、時代を動かすような大きな出来事や、強烈な印象を残す人物が数多く存在します。
その中の一人が、室町時代中期に活躍した土豪・蓮田兵衛(はすだ ひょうえ)です。
名前を聞いただけでは「え、どんな人?」と思う方も多いかもしれません。彼が生きた時代は、日本史の中でも動乱の多い時期でした。
今年、歴史小説『室町無頼』が大泉洋さん主演で映画化され、注目を集めています。
今回は、蓮田兵衛がどのような人物だったのか、そして彼が率いた「寛正の土一揆」について詳しく見ていきます。
蓮田兵衛とはどんな人物だったのか?

画像 : 刀に手をかける抜刀前の写真 PAKUTAS
まず気になるのは、蓮田兵衛がどんな人物だったのかということ。
蓮田兵衛の出自については、詳しい記録が残っていません。『新撰長禄寛正記』には「牢人の地下人」と記されており、もともと低い身分の出であったことがうかがえます。
「牢人」とは、主君を失った武士や流浪の武士を指す言葉ですが、「地下人」は農民や職人など、武士よりもさらに低い身分の人々を指します。
このことから、彼は生まれながらの武士といった人間ではなく、身分の低い階層に属していたと考えられます。
しかし、そのような身分にありながら、蓮田兵衛は名を上げ、ついには幕府に挑むほどの存在となりました。
蓮田兵衛と寛正の土一揆

画像 : 一揆 イメージ photoAC
さて、蓮田兵衛の名が広く知られるきっかけとなったのは、寛正3年(1462年)に起きた「寛正の土一揆」です。
※土一揆とは、主に農民が主体の地域の一揆
この一揆は「徳政一揆」とも呼ばれ、借金帳消し(徳政令)の実施を求める農民、土豪、浪人らが蜂起したものでした。
この時、蓮田兵衛は京都で起きた一揆の指導者として登場します。いわば、「一揆のリーダー」として名を馳せたのです。
最初に蜂起したのは1462年9月11日。この日、蓮田兵衛は京都で土一揆を率いて、幕府に徳政令の発布を求める一方で、土倉や酒屋などを襲撃しました。
その後、京都の土一揆は沈静化しましたが、10月21日に再び大規模な蜂起が起きます。
状況はどんどんエスカレートし、兵衛率いる一揆軍は東寺を制圧し、糺の森に進出。相国寺東門を攻撃するなど、幕府に対して強い姿勢を見せました。
幕府との戦い
最初の蜂起は幕府によって鎮圧されましたが、再び蜂起した一揆勢は京都各地で激しく戦い、幕府に強い抵抗を示しました。
とはいえ、組織だった幕府軍を相手に、百姓や土豪を糾合して戦う一揆勢には限界がありました。

画像 : 多賀高忠 public domain
幕府はまず侍所所司代・多賀高忠を鎮圧にあたらせ、続いて赤松政則ら在京大名の軍勢を投入したのです。
一揆勢は粘り強く戦いましたが、次第に追い詰められ、最終的に敗れました。
蓮田兵衛も奮戦しましたが、逃亡の末、淀で捕らえられました。こうして、彼の戦いは終わりを迎えたのです。
1462年11月2日、兵衛は仲間8人とともに処刑され、その首は京都の四塚で晒されます。
寛正の土一揆を率いた指導者として名を残したものの、その姿は史料の中にわずかに記されるのみでした。
蓮田兵衛の残したもの

画像 : 敗走する一揆勢(イメージ)
蓮田兵衛の死後、その名は歴史に刻まれましたが、彼のしたことがどれほど民衆の心に響いたかを知る手がかりはありません。一揆の後、その土地の状況は大きく変わり、一揆の指導者としての蓮田兵衛は、地方の土豪や農民にとって一種の英雄のように扱われたのかもしれません。
しかし、幕府にとっては、まさに目の上のたんこぶ。彼のような人物が台頭するのは大きな脅威でした。彼が求めたのは、農民や民の生活を安定させる「徳政令」だったわけですが、その背後には長引く飢饉や経済格差の拡大、蓄積した強い不満がありました。
蓮田兵衛は、そうした社会の中で声を上げ、行動に移した人物の一人だったのです。
歴史の中では「理不尽な状況を変えようと立ち上がる者」は常に存在し、声を上げたその勇気は、時代を超えて響きます。
蓮田兵衛の生きざまは、困難に直面しても声を上げることの重要性を私たちに示しているのかもしれません。
参考 :
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
『朝日日本歴史人物事典』今谷明
『志賀節子「寛正の土一揆」『日本歴史大事典 1』小学館他
『新撰長禄寛正記』
文 / 草の実堂編集部
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