五胡十六国

『古代中国』史上最も強く美しかった皇后 ~なぜ彼女は捕虜となり処刑されたのか?

才色兼備の皇后 ~武芸に秀でた少女時代

五胡十六国時代は、中国の歴史の中でも特に混乱と戦乱が続いた時代である。

西晋が滅びた後、各地で異民族や漢人の軍閥が割拠し、次々と王朝を興しては滅びていった。

この時代の覇者の一つが前秦である。

画像 : 華北を統一した前秦(376年頃)public domain

前秦は、氐(てい)族出身の苻堅(ふけん)が北方を統一し、やがて南の東晋を討つべく大軍を起こした。

しかし、淝水の戦い(383年)で東晋に大敗を喫し、それを機に帝国は崩壊へと向かった。

そんな激動の時代、前秦の皇后として戦場に立ち、歴史に名を刻んだ女性がいた。

彼女の名は毛氏(もうし)。

彼女は第5代皇帝・苻登(ふとう)の正妃でありながら、戦場で兵を率いる勇敢な武将でもあった。

毛氏は、中国西北部に勢力を持っていた氐族の名門・毛家に生まれた。
彼女の父・毛興(もうこう)は、前秦の車騎大将軍・都督・河州刺史を務めた名将であり、国家の重臣として活躍していた。

家柄だけでなく、その才能も父譲りだったのだろう。幼少期から毛氏は、一般的な貴族の令嬢とは異なる道を歩んだ。

当時、貴族の娘は琴棋書画を習い、教養を身につけるのが常であった。しかし、毛氏は武芸に魅せられ、幼い頃から剣や弓を手に取り、馬に乗って駆け回ったという。

これは、父・毛興の影響が大きかった。

毛興は娘の資質を見抜き、彼女に剣術や弓術を教え込んだ。さらに、単なる武芸だけでなく、戦術や兵法までも学ばせたと伝わる。

画像 : 毛皇后 イメージ 草の実堂作成(AI)

その成果は目覚ましく、成長した毛氏は、並の兵士を凌駕するほどの腕前になった。

弓馬の技に長け、剣を振るえば敵を翻弄し、戦場においても恐れることなく前線に立ち、兵たちを鼓舞する存在へと成長したのである。

そんな彼女が運命の出会いを果たしたのは、父の配下であった苻登(ふとう)だった。

当初、苻登は苻堅のもとで重用されるも、一時失脚した人物であり、決して華々しい地位にはいなかった。
しかし、毛興は彼の剛毅な性格と軍才を高く評価し、毛氏の夫として迎え入れた。

こうして、毛氏は前秦の未来を担う男と運命を共にすることになったのである。

皇后にして猛将! 一万の兵を率いた戦場のヒロイン

苻登は、前秦の宗室ではあったが傍流の出身であり、若い頃は不遇な時期を過ごしていた。

しかし、苻堅の政権下で軍務に就き、毛興のもとで経験を積むうちに、次第にその才を発揮するようになった。

画像 : 苻登 イメージ 草の実堂作成(AI)

当時の前秦は、淝水の戦いの大敗によって崩壊の危機に瀕しており、各地で異民族や有力者が割拠する混乱の時代を迎えていた。

淝水(ひすい)の戦いとは
https://kusanomido.com/study/history/chinese/goko/100216/#i-4

苻堅の死後、各地で離反が相次ぎ、前秦の支配力は急速に衰えていった。そのような中、苻登は関中の混乱を鎮めるため、毛興とともに戦い、勢力を築いていった。

やがて、毛興が戦乱の中で命を落とすと、苻登はその後継者として盟主に推戴される。
そして386年11月、前秦の正統を継ぐ皇帝として即位し、387年1月、毛氏が皇后に立てられた。

毛氏は皇后になった後も、後宮に留まることなく、むしろ最前線で苻登を支え続けた。
彼女はただのおかざりな皇后ではなく、戦場へ赴き、軍の士気を高めたのだ。

389年、苻登は後秦の姚萇(ようちょう)と激しく対峙していた。

画像 : 姚萇(よう ちょう)後秦の初代皇帝 public domain

姚萇は前秦の旧臣であったが、主君である苻堅を裏切って殺害し、自ら後秦を建国していた。

苻登は苻堅の仇を討つべく、姚萇と幾度も戦いを繰り広げた。その中で、安定郡の大界の拠点を守る戦いが行われた。
大界には軍需物資が集中しており、ここを失えば前秦軍にとって致命的な打撃となる。

苻登は軍の大部分を率いて別の戦線に出征し、大界の守備は手薄になっていた。
その防衛を託されたのが、皇后である毛氏であった。

毛皇后は1万の兵を率いて大界を守備していたとされる。彼女は軍を鼓舞し、城を固守して後秦軍と対峙した。

姚萇はこの拠点を攻略すべく、息子の姚崇に一度目の攻撃を命じた。しかし、この攻撃は前秦軍に察知され、苻登と毛皇后の連携によって逆に2万5千もの兵が討ち取られる大敗を喫した。

この戦果により、前秦軍の士気は一時的に大きく高まった。

しかし、勝利の喜びも束の間、姚萇は再び攻勢を仕掛けてきた。苻登は勝ちに乗じて追撃を続けたが、その間に姚萇は大軍を再編し、大界を再度襲撃した。

この結果、大界の守備は手薄となり、毛皇后は敵軍に捕えられてしまったのである。
この敗戦は、前秦にとって大きな痛手となった。

そして捕虜となった毛皇后には、過酷な運命が待ち受けていた。

毛皇后の最後

画像 : 捕虜になった毛皇后 イメージ 草の実堂作成(AI)

毛皇后が捕虜となったことで、苻登は深い衝撃を受けた。

彼にとって、毛皇后は単なる妃ではなく、共に戦場を駆けた戦友でもあった。
前秦は後秦の急襲を受けて大界の拠点を失い、糧秣や兵器も大量に奪われた。さらに、毛皇后や多くの将兵が捕えられたことで、軍の士気も大きく下がってしまった。

毛皇后が捕虜となった直後、後秦の姚萇は彼女を自らのもとに引き立て、その処遇を考えた。
彼女の戦場での勇猛さは後秦でも評判となっており、皇后という高貴な身分に加え、その美しさも姚萇の関心を引いたとされる。

姚萇は、彼女を処刑すれば前秦の士気を挫くことができる一方で、もし降伏させることができれば、苻登にとってこれ以上ない精神的な打撃となると考えた。

そのため、彼はまず毛皇后を説得し、自らの後宮に入るよう求めた。

しかし、毛皇后は毅然とした態度でこれを拒絶し、「天子の皇后が、どうして賊の辱めを受け入れられるものか。私を殺すならば、今すぐに殺せ!」と一喝した。

彼女の誇り高い言葉に、姚萇は一瞬ためらいを見せたが、次の瞬間には激昂し、処刑を命じた。

389年、処刑場に引き出された毛皇后は、なおも天を仰ぎ、「無道なる姚萇め、天子を殺し、今また皇后を辱めようとするのか。皇天后土よ、これを見届けよ!」と叫び、最後までその気概を失わなかったという。

享年は確かな記録はないが、20代後半から30代前半だった考えられる。

最後に

毛皇后の死は、前秦にとっても苻登にとって大きな痛手となったが、それでも彼は戦い続けた。

しかし、大界の敗戦によって軍の士気が大きく低下し、戦局は次第に不利となっていった。

394年、苻登は廃橋の戦いで決定的な敗北を喫し、軍は瓦解。苻登自身は逃亡を続けたが、最終的に同年7月、後秦軍に捕らえられて処刑された。在位9年、享年52であった。

その後、苻登の子・苻崇が前秦の後継者として即位したものの、やがて西秦の第2代王・乞伏乾帰(きつぶく けんき)に敗れ、前秦はついに滅亡した。

毛皇后は単なる皇后ではなく、一人の戦士として戦場に立ち、国のために戦い、そして壮絶な最期を迎えた。
歴史上、戦う皇后は決して多くはないが、彼女はその中でも際立った存在であった。

彼女の死は、前秦の崩壊を加速させるきっかけとなった。しかし、その名は後世に語り継がれ、特に氐族の間では彼女の忠義と勇気が長く称えられたという。

乱世に生まれながらも、最後まで節を曲げることなく、戦い抜いた毛皇后の生涯は、まさに烈女の名にふさわしいものであった。

参考 :『晋書』苻登妻毛氏 『資治通鑑』第107巻 他
文 / 草の実堂編集部

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