契丹の若き将軍、帝位への道
中国史上ただ一人、死後に「塩漬けのミイラ」となった皇帝がいる。
その人物は10世紀前半、北方の遊牧民族・契丹(きったん)が築いた中国史上最初の征服王朝「遼(大契丹国)」の第2代皇帝・耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)である。※漢名は耶律徳光
なぜ彼は、そのような異例の死を遂げたのだろうか。
耶律堯骨は、902年11月25日、契丹の王族・耶律阿保機(やりつ あぼき)の次男として生まれた。

画像 : 耶律 阿保機(やりつ あぼき)wiki c 遠野後輩
父の阿保機は、契丹八部の有力首長として台頭し、916年に「天皇帝」を名乗って契丹国を建国。
やがて国号を「大契丹国」と定めた。

画像 : 耶律阿保機が契丹国を建国したばかり頃の領土(916年頃)by twha5
遊牧民ながらも、中国的な皇帝制度を取り入れたこの体制は、後の「遼朝」へとつながっていく。
阿保機は領土を拡大するなかで、皇太子には堯骨の兄・突欲(とつよく)を指名していた。
突欲は後に渤海を滅ぼして建国された東丹国の王となり、皇位継承者としての地位も確かなものに思われていた。
だが926年、阿保機が渤海遠征の帰路で病没すると、状況は一変する。
皇太子の突欲は、生母である述律皇后(しゅつりつこうごう)に疎まれ、帝位継承から外されてしまう。代わって後継者として推挙されたのが、次男の堯骨であった。
突欲は失意のうちに後唐に亡命し、南下して漢地の政局に巻き込まれてゆく。一方、堯骨は927年、母の述律皇后の後押しを受けて皇位に即位し、契丹の第2代皇帝となる。
即位当初の堯骨は、まだ20代半ばの若き君主にすぎなかった。
だがこの若者は、やがて契丹史上最大の軍事遠征を指揮し、中原の心臓部にまで迫り、中国史上最初の「征服王朝」を打ち立てたのである。
「中原に進軍せよ」後晋を滅ぼした契丹の皇帝

画像 : 耶律堯骨(徳光)イメージ 草の実堂作成(AI)
大契丹国の第2代皇帝となった耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)は、単なる北方の遊牧王では終わらなかった。
938年、後唐の河東節度使・石敬瑭(せき けいとう ※のちの後晋の初代皇帝)は、皇位をめぐる内乱に巻き込まれ、左遷されていた。
そして、彼は堯骨に使者を送り、自ら「皇帝の義子」となることを申し出た。
その代償として、燕雲十六州、すなわち現在の北京・大同一帯を割譲すると誓ったのである。
これは後唐からすれば、中原の一角を引き渡す、まさに「売国」とすら呼ばれる取引だった。

画像 : 赤い細実線で囲まれたところが燕雲十六州 wiki c 玖巧仔
この要請に応じた堯骨は、自ら5万の騎馬軍を率いて南下。
晋陽(現在の太原)を包囲し、後唐軍を打ち破った。
石敬瑭はその後、堯骨によって擁立され「後晋」の初代皇帝となる。とはいえ事実上、契丹の庇護下に成立した政権であった。
だが、この関係は長くは続かなかった。後晋が自立の動きを見せ始めると、堯骨は決断を下す。
石敬瑭の死後の944年、第2代皇帝となった甥の石重貴(せき じゅうき)が堯骨への臣従を拒んだことで、契丹の大軍が再び南下することになる。
中国初の「征服王朝」

画像 : 契丹軍 イメージ 草の実堂作成(AI)
947年正月、堯骨はついに黄河を越え、後晋の首都・開封に入城。
こうして後晋はわずか11年で滅亡し、中原の心臓部が契丹の手に落ちた。
堯骨は皇帝の儀礼をもって崇元殿に登り、漢人の百官から三拝九叩頭の礼を受けたという。
この時、彼は一つの重大な決断を下す。
契丹という遊牧民族の国名をあえて捨て、漢風の「大遼」へと改めたのである。
これは中原に対する支配の正統性を内外に強く印象づける、象徴的な措置であった。
遼は、中国史上最初の「征服王朝」とされる。
この「征服王朝」とは、異民族が本拠地を保持しつつ中華世界を支配した政権を指し、後の金・元・清と並び称される概念である。

画像 : 遼(契丹)の最大版図(947年頃)twha5
とはいえ、遼は中国全土を掌握していたわけではなく、その支配は華北の北縁(現在の北京や大同などを含む地域)に限られていた。
金もまた同様に、中原北部を中心とした地域のみの支配にとどまり、元・清に至って初めて征服王朝による中国全土の統治が実現する。
過去にも五胡十六国や北魏・北斉・北周といった異民族政権は存在したが、これらはいずれも中原に移住・同化していった「浸透王朝」と分類される。
それに対し遼は、征服者たる契丹が遊牧的な本拠地を保持したまま、漢人に対する支配体制を外縁部に構築したという点で、性質が異なるのである。
契丹の遼は、まさに「征服王朝」の先駆けとして、南の農耕世界と北の遊牧世界を二重構造で統治する「南北面官制」を制度化し、異文化の共存と中華統治を両立させようとする政治的実験を試みた。
契丹は本拠の遊牧帝国としての体制を保ちつつ“中華”を名乗る、初の王朝となったのである。
皇帝・堯骨の突然の死
だが、華やかな戴冠の裏で、堯骨の足元は揺らぎ始めていた。
まず問題となったのが「兵站」だった。
長期にわたる南征によって補給線は伸びきり、契丹軍は現地調達、すなわち略奪に頼らざるを得なかった。

画像 : 宋代に描かれた契丹人の絵 public domain
堯骨は「打草穀(だそうこく)」と呼ばれる物資収奪政策を採用し、米や家畜を容赦なく徴発させた。そのため中原の民衆は恐慌をきたし、各地で反乱が頻発した。
堯骨自身も、南方の気候と都市生活に適応できず、次第に健康を損ねていったとされる。『遼史』によれば、堯骨は開封滞在中に「熱疾(ねっしつ)」を患い、体調を崩しながら政務に臨んでいたという。
結局、彼は開封からの撤退を決断する。
947年4月、契丹軍は北帰を開始し、幽州(現在の北京)を目指して移動を始めた。しかしその道中、堯骨の病状は急速に悪化する。
そして、河北の栾城(らんじょう)、殺胡林(さつこりん)と呼ばれる地で、耶律堯骨は息を引き取った。享年46。
中原を席巻した征服王の死は、あまりにも唐突なものだった。
だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。
堯骨の遺体は、開封にも、彼が死去したその地にも埋葬されなかったのである。
契丹軍は、堯骨の体を故郷に戻すため、ある“異例の処置”を施すことになる…
なぜ堯骨はミイラにされたのか?
契丹軍が施したのは、防腐処理であった。
すなわち、堯骨の遺体をその場で開腹し、内臓を取り出して塩に漬け、故郷まで搬送可能な状態にしたのだ。
これは、彼らが北方の風土で培ってきた独特の葬制、すなわち「ミイラ化」であった。

画像 : 堯骨をミイラ化する契丹軍 イメージ 草の実堂作成(AI)
当時の契丹では、王族や貴族の死に際し、死体の腹を裂いて内臓を取り出し、香薬や塩、明礬(みょうばん)を詰めて縫合し、遺体の腐敗を防ぐという風習があった。
さらに、体液を抜くために細い葦の管を皮膚に刺し、乾燥させる処置まで行われた。顔には金属製の仮面を被せ、手足には金属の網を巻くこともあったという。
こうした処置の背景には、契丹の政治的・宗教的観念があったとされる。
中原の異郷に皇帝の遺体を埋葬することは、契丹人にとって「魂を彷徨わせる」ことと同義だった。
しかし、漢人たちの文化から見れば、この処置は常軌を逸していた。
そして、彼らはこの処置を揶揄する言葉として、「帝羓(ていは)」という蔑称を生み出した。
「羓(は)」とは、塩漬けにされた肉の意である。すなわち“帝羓”とは、「皇帝の肉を塩で保存したもの」というあからさまな侮蔑を込めた表現であった。
『資治通鑑』『旧五代史』『新五代史』など複数の史書は、この異例の処置を詳しく伝えている。
契丹主至临城,得疾,及栾城,病甚,苦热,聚冰于胸腹手足,且啖之。丙子,至杀胡林而卒。国人剖其腹,实盐数斗,载之北去,晋人谓之“帝羓”。
意訳 : 契丹の王が臨城に至って病を発し、栾城では病が重くなった。殺胡林で死に、民はその腹を裂いて数斗の塩を詰め、遺体を北へ運んだ。晋の人々はこれを「帝羓」と呼んだ。
引用『資治通鑑』巻286《後漢紀一》
数々の異民族王朝と対峙してきた中原においても、耶律堯骨の「遺体処理」は唯一無二の衝撃だったのだ。
耶律堯骨は一時的ではあるが中原を制し、「大遼」を建国した征服者であった。だが、その最期は故郷に帰ることすらできず、「ミイラ皇帝」という不名誉な異名とともに記憶されることとなった。
それでも、堯骨の遺体は契丹の風葬地に葬られ、遼の皇帝として正式に陵墓に祀られた。
彼のミイラ化された遺体、そして“帝羓”というあだ名は、中国史上にただ一人の「ミイラ皇帝」として、異文化の衝突と融合を象徴する存在となったのである。
参考 : 『遼史』『資治通鑑』『旧五代史』他
文 / 草の実堂編集部
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