朝ドラ「あんぱん」にて、伯父・寛の助言で美術学校の図案科へ進学することになった嵩。
史実でもやなせたかし(本名・柳瀬嵩)氏は、東京の美術系の学校へと進んでいます。
一方、弟の千尋さんは、高知の旧制高校へと進学しました。
やなせ氏の通った美術学校は自由な校風のモダンな学校で、千尋さんの選んだ旧制高知高等学校はバンカラなエリート養成高校。
どちらもそれぞれに個性のある学校で、兄弟の性格の違いを見事に表しています。
今回は、やなせ氏と千尋さんの進学先について詳しく見ていきたいと思います。(以後敬称略)
「一生絵を描いていきたい」嵩と漫画との出会い

画像 : 横山隆一『サンケイグラフ』1955年1月23号. public domain
小学校時代、父親の遺した本や伯父の蔵書を手当たり次第に読みまくっていた嵩が最も影響を受けたのは、伯父の病院の待合室に置いてあった雑誌でした。
『中央公論』や『改造』、『婦人倶楽部』といった大人向けから、『幼年倶楽部』などの子ども向けまで、ありとあらゆる雑誌を乱読していました。
嵩が心惹かれたのは文章よりも挿絵で、特に高畠華宵(たかばたけかしょう)の美人画がお気に入りでした。
また、漫画『のらくろ』の大ファンで、そのモダンな画風をまねして自作の物語に合わせた絵を描くようになっていきました。
昭和6年(1931年)、中学に入学した嵩は、雑誌『新青年』を購読し始めます。
都会のインテリ層向けの『新青年』には、横溝正史や江戸川乱歩の探偵小説や、アメリカ風のシャレた漫画が掲載されていました。
こうしたモダンな雑誌から多くの刺激を受けた嵩でしたが、漫画家を強く意識するきっかけになったのは、友達が見せてくれた一枚の写真でした。
友達の姉が著名な漫画家・横山隆一と結婚することになり、嵩は友達から横山のプライベートな写真を見せてもらいます。
横山隆一は高知出身。中学も嵩と同じ城東中学でした。
横山の写真を見たとき、それまで雲の上の人と思っていた漫画家を身近に感じ、嵩は漫画家という職業に興味を持ち始めます。
暇さえあれば漫画を描くようになり、欧文社(現・旺文社)が出版していた『受験旬報』に投稿したところ見事入選。
その後も投稿を続け、引き出しは記念メダルでいっぱいになっていました。
また、新聞の漫画コンクールに応募して1等になった時には、10円(現在で約5万円)の賞金も手にしました。
その中から、3円を弟の千尋に小遣いとして渡しています。
受験に二度失敗 一浪を経て東京高等工芸学校へ入学

画像 : 東京高等工芸学校本館. public domain
現在の「6・3・3・4制」とは異なり、戦前の学制は小学校が6年、旧制中学校が5年、旧制高等学校が3年、帝国大学が3年でした。
ただし、こちらは大学進学を目指す男子の場合です。
義務教育である尋常小学校を卒業した後の学校には学費がかかるため、小学校を卒業すると働きに出る子も大勢いました。
旧制中学では、4年生を修了した時点で上級校へ進むことが許されていました。
昭和9年(1934年)、4年生となり進路に直面した嵩は、心の中では漫画家か挿絵画家になりたいと思っていましたが、進学先を決める時期になってもなかなか目標が定まりません。
見かねた伯父が医者はどうだと提案し、とりあえず当時あこがれの存在だった高知高等学校(現在の高知大学)を受験しました。
しかし、数学がからっきしダメな嵩が受かるはずもなく、結果は玉砕。
そもそも医者になる気などなかった嵩は、「絵の道に進みたい」と自分の正直な気持ちを伯父に打ち明けました。
伯父はあっさりと承諾し、
「少し絵がうまいくらいでは食べていけないだろうから、図案(デザイン)をやればいい」
と助言までしてくれました。
世事に通じた大人の意見は尊いものです。
しかし、そんな助言も当の本人にはちっとも響かなかったようで、美術系の学校といえば東京美術学校(現在の東京藝術大学)、絵の道といえば油絵だと思い込んでいた嵩は、図案にまるで興味をもてなかったそうです。
「とりあえず絵が描ければいい」その思いだけで、翌年、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の図案科と、東京美術学校の図画師範科を受験しました。
しかし、結果はどちらも不合格。
伯父夫婦に浪人を許してもらい、再度、京都高等工芸学校図案科にチャレンジし、新たに東京高等工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部)を受験します。
嵩が受験した学校は、どちらも官立(=国立)の旧制専門学校でした。
旧制専門学校は単科大学に相当する学校で、多くが現在の大学の前身となっています。
嵩は、競争率9倍の東京高等工芸学校に見事合格しました。昭和12年(1937年)、18歳の春でした。
ちなみに苦手だった数学は、ドラマと同じように問題集を丸暗記する方法で乗り切っています。
東京高等工芸学校の数学の問題は暗記した問題とそっくりで、その時は運が自分に味方したと思ったそうです。
東京高等工芸学校は大正デモクラシーの気風が残る自由な校風で、軽妙洒脱なものを愛する嵩にとってピッタリな進学先でした。
エリート養成機関「旧制高校」に入学した千尋
嵩が孤軍奮闘する中、千尋は中学4年修了後、高知県立高知高等学校(現在の高知大学)に入学します。
戦前の高等学校(旧制高等学校)は、帝国大学などの官立旧制大学へ進学するための予備教育機関でした。
在籍できるのは男子のみで、卒業後は帝国大学等への進学が保証されたエリート養成機関だったため、あちこちから秀才たちが押し寄せ、受験戦争は熾烈を極めました。
昭和12年(1937年)の調査によると、中学4年修了で合格を勝ち取ったのはわずか16%。
千尋は、よほどの秀才だったといえます。
当時の高校生は「弊衣破帽(へいいはぼう)」というバンカラなスタイルで有名でした。

画像 : マントを羽織った旧制高校の学生(1910年代~1920年代前半) wiki c 314a15926535
「弊衣破帽」とは、ボロボロの制服に黒マント。白線入りの破れた帽子をかぶり、冬でも素足に朴歯(ほおば)の高下駄といういで立ちです。
バンカラは、第一高等学校に代表される旧制高校の生徒が、流行の発端といわれています。
嵩も、喫茶店のマダムもあこがれた旧制高校生
哲学書や文学書を読みあさり、人生や芸術について夜を徹して友と議論する旧制高校の生徒たちは、教養豊かな硬派としてとても人気がありました。
嵩によると、千尋の進学した旧制高知高校の生徒は、「高知の知的階級を代表するもの」であり、「高知の町ではスターで、はなやかな存在」だったそうです。
嵩は後に、こんな感想をもらしています。
「もちろんぼくも入学して朴歯の下駄で歩きたかったが、痴的階級としてはとてもだめだとあきらめました」
引用 : やなせたかし著『痛快!第二の青春』

画像 : 竹久夢二の美人画. public domain
また、旧制高校生は女性からもモテたようで、嵩は「スケッチボックス」と題した詩に高校生の弟を綴っています。
“味気なかった中学生活が終って
ぼくは東京へでて
デザイン科の学生になった
…(中略)…
弟が上京してきた時
ぼくは弟を馴染みの喫茶店へつれていった
若いマダムは頰を染めてぼくにいった
「素敵な弟さんね 一高生ね
秀才なのね」
ぼくは「そうさ」とうなずいた
第一高等学校ではなかったが
秀才だったのは事実だから
ぼくは自慢したかったのだ
弟をほこりにおもったのだ
でも その底にいくぶんか
ねたみの心もありました“引用 : やなせたかし著『おとうとものがたり』
モダンで洒落たものが好きだった嵩と文武両道、質実剛健だった千尋。
それぞれがそれぞれの夢を抱き、別々の道を歩み始めました。
これからの二人の人生がどう描かれるのか。放送を楽しみに待ちたいと思います。
参考文献
やなせたかし『痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく』講談社
やなせたかし『おとうとものがたり』フレーベル館
この記事へのコメントはありません。