遊女は文化の基盤となり歴史を動かした
吉原遊郭を正面から描いた大河ドラマ『べらぼう』。
主人公・蔦屋重三郎が日本橋に拠点を移したとはいえ、主な舞台が吉原である以上、春を売ることを生業とする妓楼や、そこに属する遊女たちの存在を無視することはできません。
そのため、この作品は、江戸時代の四大改革(享保の改革・田沼意次の政治・寛政の改革・天保の改革)を理解するうえで非常に有意義であるにもかかわらず、「子どもには見せられない」といった意見も多く見受けられます。
たしかに、ジェンダーの視点から見れば、遊郭という制度は、決して再びこの世に生み出してはならず、再現されてはならないものであると言えるでしょう。
しかし一方で、「遊女」と呼ばれた女性たちは、紛れもなく歴史の中に存在していました。
それどころか、彼女たちは時代ごとにさまざまな境遇に置かれながらも、それぞれの時代において文化の基盤となり、歴史を動かす力の源泉ともなっていたのです。

画像:鳥居清長の南見十二候九月(千葉市美術館所蔵)public domain
女性が「聖なる存在」としての役目を担う
歴史学者・網野善彦氏は、名著とされる『日本の歴史をよみなおす』の中で、「女性の無縁性」という言葉を提唱しました。
この言葉によって、女性が人ならぬ力をもつ存在、すなわち「聖なるもの」と結びつく特質をもつことが示されています。
こうした特質は、室町時代初期、すなわち南北朝の頃までに特に顕著であったと網野氏は指摘しています。

画像:京都の群衆(一遍聖絵)public domain
とりわけ、平安末期から鎌倉時代という中世において、女性がしばしば重要な文書や資産を預けられていたという史実に着目し、戦乱の時代においても、それらを女性に託すことである程度の安全性が確保されていたという点に注目しています。
このようなことが、女性の性そのものの特質と深く関わっていると網野氏は定義づけているのです。
なお現代においては、文書や資産は現実的・経済的な価値を持つものと捉えられていますが、かつてそれらは「聖なるもの」と考えられていました。
というのも、資産価値をもつ米や銭は、そもそも神仏に納めるためのものであったからです。
そのため、米や銭を納める「聖なる倉・蔵(くら)」の管理者として、女性が大きな役割を果たしていたという事実は、女性が「聖なる存在」としての役目を担っていたことを示しているのです。
遊女の源流は古代における「遊行女婦」
女性の性そのものに関わる特質は、女性の職能とも深く結びついていたと考えられます。
その一例が、古代にまでその活動を遡ることができる「歩き巫女」です。
彼女たちは漢字で「遊行女婦」と表記され、「あそびめ」「うかれめ」などと読まれており、いわゆる“遊女の源流”であった可能性も指摘されています。

画像:大伴旅人(菊池容斎画『前賢故実』)public domain
古代の「遊行女婦」に関する著名な逸話の一つに、奈良時代、大宰帥として太宰府に赴任していた大伴旅人(おおとも の たびと)が、都に帰る際の出来事があります。
旅人を見送る太宰府の官人たちに交じって、「遊行女婦」も見送りに加わり、彼と和歌の応酬まで交わしたとされています。
この逸話は、近世において売春を生業としながらも、和歌を詠み、生け花や茶道といった教養を身につけていた遊女たちの姿の原型を示すものとも解釈できます。

画像:太宰府 正殿跡(都府楼跡石碑)public domain
太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも称されるほどの重要な拠点であり、西海道を統括し、外交や軍事の一端を担うなど、朝廷と同様の機能と施設を備えた都市でした。
このような場において、すでに太宰府という平城京に匹敵する“律令の府”と遊女たちが深く関わっていた可能性は、十分に考えられるのです。
「遊女」は天皇や神に従事する職能民だった
日本における律令制は、飛鳥時代後期の7世紀後期に始まり、平安時代中期の10世紀頃まで機能します。
そのような律令制の下には、さまざまな官庁がおかれ、多種多彩な職能民を統括していました。
しかし10世紀以降、律令制が衰えて官庁の機能が徐々に変質してくると、そこに管理されていた職能民たちは、それぞれに独立した集団を形成していくことになります。
遊女もまた同じような経緯をたどり、後宮や雅楽寮などの官庁に所属していた女性の官人や歌女などが、その源流となっていったと考えられます。

画像:畠山辻の遊女(七十一番職人歌合)public domain
そして、10世紀から11世紀にかけて、女性の長者に率いられた遊女の集団が現れます。
この集団は、官庁からある程度自立した女性の職能集団であったわけです。
西日本において彼女たちは、津・泊(港湾)を拠点として船を用いて活動しました。
また東日本においては、やはり官庁から独立したと考えられる芸能集団である傀儡(くぐつ)の女性が遊女となり、こちらは宿を拠点に活動しました。

画像:水辺の遊女(法然上人絵伝)public domain
ただこの時点では、遊女は完全に朝廷から独立したわけではなく、鎌倉初期の仁和寺御室の記録である『右記』には、「遊女・白拍子は公庭」と書かれており、朝廷に属していたことを明記しています。
つまり遊女の集団は、雅楽寮などに属して、朝廷の儀式に奉仕していたことは間違いないようです。
白拍子や傀儡も同様で、鎌倉前期には白拍子奉行人という役所が存在していました。

画像:白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)public domain
鎌倉時代までは、遊女・白拍子・傀儡の女性が、天皇や上皇、あるいは貴族や上級武家の子どもを産んだり、勅撰和歌集に詠んだ和歌が採用されるという事実があります。
それは、決して低くない彼女たちの社会的地位を如実に物語っていると同時に、そのような女性職能民が天皇や神に直属する「聖なる者」と考えられていたことを証明しているといってもよいでしょう。
このように古代から中世にかけては、日本の社会に女性の職能民が、社会的地位を保ちながら活躍していました。
また、遊女・白拍子などの芸能民だけでなく、商人の世界にも女性が非常に多かったとされています。

画像:辻君(七十一番職人歌合)public domain
しかし、時代が中世から近世へと移り変わるにつれ、女性自体の「聖なる特質」が徐々に衰退していきました。
それにともない女性の地位の低下が著しくなり、遊女という職能民もまた、制度や社会の枠組みに取り込まれ、かつて担っていた宗教的・文化的役割を忘れられていきます。
それでも、彼女たちが歴史の中で果たしてきた存在の重みは、今なお私たちの文化の底流に息づいているのです。
※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』 ちくま学芸文庫刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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