弥生&古墳時代

現皇室の血をつないだ知られざる女性「手白香皇女」秘められた古墳の謎

皇統の継承に大きな働きをした皇女

画像:冕冠をかぶる神功皇后 public domain

日本史を通観すると、そこには時代ごとに大きな功績を残した女性たちがいる。

弥生時代末期の卑弥呼、古墳時代の神功皇后、飛鳥時代の推古天皇・持統天皇、奈良時代の光明皇后、平安時代の紫式部・清少納言、鎌倉時代の北条政子、室町時代の日野富子、安土桃山時代の北政所(おね)、江戸時代の春日局などは、広く知られる代表的な存在である。

一方で、日本の歴史的転換期に重要な役割を果たしながらも、一般にはほとんど知られていない女性も少なくない。

今回は、その一人であり、現代の皇室に連なる系譜の継承に大きく関わったとされる「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」と、その真陵について紹介したい。

後継者の選定に不安定な応神系王朝

画像 : 雄略天皇『御歴代百廿一天皇御尊影』public domain

大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)を諱(いみな)とする第21代雄略(ゆうりゃく)天皇は、『宋書』倭国伝に登場する倭の五王のうち「武」に比定される人物である。

その後を継いだ、第22代清寧(せいねい)天皇には子がなかった。

そこで清寧天皇は、第17代履中天皇の子で、雄略天皇の時代に殺害されたと伝わる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の遺児である億計王(おけのみこ)・弘計王(をけのみこ)兄弟を探し出し、億計王を皇太子に立てた。

清寧天皇の崩御後、まず弟の弘計王が第23代顕宗(けんぞう)天皇として即位し、その後、兄の億計王が第24代仁賢(にんけん)天皇となった。

仁賢天皇の子が、第25代武烈天皇である。

しかし、この武烈天皇にも子がなく、506年に崩御した際には、『日本書紀』に「男も女もなく、御嗣絶ゆべき」と記されるように、皇統断絶の危機に陥った。

雄略天皇は、360年前後に崇神王朝を引き継いだとされる、第15代応神天皇の王統に属する大王と考えられる。

しかし、その応神王朝も、140年を経て後継者の選定に不安定な時代を迎えていたのである。

特異な出自であった第26代継体天皇

画像 : 継体(けいたい)天皇 wiki ©立花左近

武烈天皇の崩御によって皇統断絶の危機が訪れると、大連・大伴金村は、越前国三国にいたとされる応神天皇の五世孫「男大迹王(をほどのおおきみ)」を、507年に皇位継承者として迎えた。

これが第26代継体天皇である。

『古事記』には、

「品太王(ほむたのきみ=応神天皇)の五世孫、袁本杼命(をほどのみこと)、近淡海国より上り坐さしめ、手白髪命(たしらかのひめみこ)に合せまつりて、天下を授け奉りき。」

と記されている。

また『日本書紀』にも、

「誉田(応神)天皇の五世孫なり。彦主人王の子にして、母を振媛(ふりひめ)といふ。振媛は活目(いくめ=垂仁)天皇の七世孫なり。」

とある。

継体天皇の正体については本稿では割愛するが、『日本書紀』では越前を、『古事記』では近江を治めていた王族とする一方で、先帝とは4親等以上離れた応神天皇の5世孫という、特異な出自であった。

このため「ヤマト王権とは無関係の地方豪族が、実力で大王位を簒奪したのではないか」という議論が現在まで続いているのである。

武烈帝の同母姉に入婿として皇位を継承

このような状況の中、継体天皇の皇后として推されたのが、武烈天皇の同母姉である「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」であった。

手白香皇女は、第16代仁徳天皇を祖とする系統に属し、その四世孫にあたる。

画像 : 天皇系図 15~26代(一番下の皇女が手白香皇女)wiki©nnh

この皇女を継体天皇が娶ることで、応神天皇の五世孫とされる継体天皇によって、応神系統の血統がかろうじて継承されたことになる。

また6世紀前半には、すでに大王位を継ぐ資格は「皇統に属する五世以内の男子」に限られ、皇后も「皇族の女子を迎えるべき」と考えられていたと推測される。

いずれにせよ、手白香皇女の存在なくしては継体天皇の即位が危ぶまれただけでなく、その後の天皇家における皇統の維持にも大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

そして現在、今上天皇へと繋がる皇統の始祖を、継体天皇とみなす学者や研究者は多い。

この説に立てば、「手白香皇女」こそ現皇室にとっての始祖的存在であり、その重要性は計り知れないと言えるだろう。

「西山塚古墳」が秘める驚愕の史実?

画像:手白香皇女 衾田陵(西殿塚古墳)wiki©Saigen Jiro

継体帝には、即位前の「男大迹王」時代を含め、「手白香皇女」以外にも8名の妃がいたと伝わる。

それにもかかわらず、あえて手白香皇女を皇后に迎えたのは、過去の皇統(応神朝)との継続性を主張し、「男大迹王」の大王位継承の正統性を強調する狙いがあったと考えられる。

ここからは、「手白香皇女」の御陵について考察しよう。

奈良県天理市の南東部、山の辺の道沿いののどかな田園地帯に、全長約234メートルの巨大な前方後円墳「西殿塚古墳」がある。
宮内庁は、これを衾田陵(ふすまだのみささぎ)として手白香皇女の陵に治定している。

しかし考古学的調査によれば、西殿塚古墳の築造は3世紀後半(およそ280〜300年頃)と推定され、最初期の大王墓とされる箸墓古墳に続く時期に位置づけられる。

没年は明らかでないものの、6世紀前半に没したとされる手白香皇女の墓としては、築造年代が200年以上も隔たっており、同一視するのは難しいとみられる。

画像:手白香皇女の真陵と考えられる西山塚古墳 wiki©663highland

では、皇女の真の墳墓はどの古墳なのだろうか。

実は「西殿塚古墳」からわずか300mほどの距離に、その古墳は存在していた。

それが墳丘全長約115mの前方後円墳「西山塚古墳」である。

同墳は未調査の古墳で、内部構造などは判然としていない。

画像:西山塚古墳と西殿塚古墳の位置関係

しかし、発達した前方部や、後円部とほぼ同幅のくびれ部など、その墳丘は6世紀の後期古墳の形状を端的に物語っている。

さらに決定的だったのは、同古墳から出土した埴輪の胎土分析である。
これにより埴輪が大阪府高槻市の「新池遺跡」で焼かれたことが判明した。

この新池遺跡は、5世紀後半から約100年間操業した大規模な埴輪窯跡で、『日本書紀』欽明紀にもその存在がうかがえる。

ここで作られた埴輪は、約1キロ離れた「今城塚古墳」にも供給されていたことが明らかになっており、日本最大級の家形埴輪(高さ107センチ)を含む140点以上の象形埴輪が出土している。

そしてこの「今城塚古墳」こそ、手白香皇女の夫である継体天皇の真陵であることは、もはや誰もが認めるところなのである。

画像:継体天皇の真陵・今城塚古墳 wiki©Saigen Jiro

『延喜式』には、手白香皇女の墓について

「衾田墓 手白香皇女。在大和国山辺郡。兆域東西二町。南北二町。無守戸。令山辺道匂岡上陵戸兼守」

と記されている。

これは、大和国山辺郡に所在し、東西・南北それぞれ二町(約220メートル)四方の区域を持つが、専属の守戸はなく、山辺道沿いの匂岡上陵の守戸が兼務していた、という意味である。

この記述の通り、手白香皇女の真陵とみられる「西山塚古墳」は、大和古墳群(山辺の道沿い)に属している。

一方、継体天皇の真陵とされる「今城塚古墳」は、大阪府高槻市の三島野古墳群に位置する。

つまり、二つの古墳は約50km離れた場所に築かれていることになる。
皇后と天皇の陵墓が、これほど遠く隔たって築かれたのは珍しい事例といえるだろう。

では、なぜ西山塚古墳は、遠く離れた大和古墳群の中に築かれたのだろうか。

継体天皇は北陸から迎えられた王で、血統的には応神天皇の5世孫とされるが、直接の継承性には疑問が残る。
そこで、自らのヤマト王権との結びつきを強調するため、歴代大王の墳墓が集中する大和古墳群の中に皇后の墓を営んだと考えられる。
言い換えれば、初期ヤマト政権の本拠地を、手白香皇女の実家筋の地として位置づけたのである。

この視点で見ると、『延喜式』の「皇女の墓には守戸がおらず、崇神天皇陵の陵戸が兼務していた」という記述は重要な意味を持つ。

陵戸が兼務するためには、「崇神天皇陵」と「手白香皇女陵」が極めて近接していた可能性が高い。

このことから、宮内庁が手白香皇女陵と治定している「西殿塚古墳」こそ、実は真の「崇神天皇陵」であるという新たな仮説が浮かび上がるのである。

※参考 :
宮崎正弘著 『古代史最大の謎(ミステリー)応神天皇と継体天皇』育鵬社刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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