幕末明治

「実はバリバリの武闘派だった?」自由民権運動の祖・板垣退助

板垣退助が主導した自由民権運動

画像:板垣退助(1906年頃) public domain

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、日本はアジアで初めての立憲君主国となった。

そして翌1890年(明治23年)11月25日、第1次山縣内閣のもとで第1回帝国議会が召集され、日本初の国会が開かれた。

しかし、この流れはすべて明治政府が主導して生まれたものではない。

その原点は、征韓論に敗れて下野した板垣退助や後藤象二郎らが、1874年(明治7年)1月17日に政府・左院へ提出した「民撰議院設立建白書」にあった。

板垣らはこの建白書の中で、官選ではなく民選の議員による立法議事機関、すなわち「国会の開設と憲法の制定こそが、国家の維持と発展に不可欠である」と主張した。

これが、いわゆる「自由民権運動」の始まりである。

画像:後藤象二郎 public domain

しかし、これに対して大久保利通ら明治政府首脳は応じず、事実上これを無視した。

だが、この出来事を契機として薩長藩閥による政権運営への批判が噴出し、自由民権運動はますます勢いを増していった。

やがて全国各地で政治結社が次々と名乗りを上げ、民衆による政治参加の機運が高まっていく。

そして1881年(明治14年)10月12日、明治天皇は「国会開設の詔」を発し、1890年(明治23年)を期して議員を召集し、国会(議会)を開設すること、さらに欽定憲法を制定することを表明したのである。

板垣の素顔はバリバリの軍人だった

画像:板垣退助 44歳 public domain

このように板垣退助は、民主主義や自由主義の実現を目指した「自由民権運動のリーダー」として教科書などにも登場し、いわゆるリベラル派の人物として知られている。

ところが、実際の板垣の人物像は、リベラルどころか、むしろ好戦的で武闘派の一面を持っていたようだ。

そもそも板垣の考える「民権」とは、庶民階級の国民が自ら行動し、ときには戦って国家を守るというものであり、いわばアメリカ独立戦争やフランス革命を意識した思想であった。

1878年(明治11年)、国家主義団体・玄洋社の頭山満と会談した際、板垣は「いやしくも日本国民たるものは、市民ことごとくが武士でなければならぬ」と語っている。

つまり、板垣にとって理想の日本人とは、国民すべてが兵士として国家を支える存在であるべきだ、というのである。

こうした板垣の考え方は、彼の前半生からもうかがい知ることができる。

板垣は土佐藩の上士の家に生まれ、尊王攘夷運動に心血を注いだ。

画像:板垣退助が倒幕のために組織した「迅衝隊」。中央が板垣 public domain

やがて薩摩藩の西郷隆盛とともに「薩土同盟」を結び、倒幕に向けて活動を開始する。

これは、大政奉還によって平和的に徳川から朝廷への政権移譲を目指していた、土佐藩主・山内容堂の方針に真っ向から反するものであった。

板垣は「徳川三百年の政治体制は、そもそも戦によって築かれた秩序である。であれば、それを覆すにも戦によるほかない。話し合いで将軍職を退かせようとするような生易しい策では通じない」と再三主張し、藩の要職を退けられている。

その後、王政復古の大号令の後に戊辰戦争が起こると、板垣は東山道先鋒総督府参謀として、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破。

さらに会津戦争でも最前線で官軍を指揮するなど、その素顔はまさにバリバリの軍人であった。

自由民権運動の本質は藩閥に対する反抗

画像:征韓議論図 public domain

明治政府の始動とともに、板垣退助は参議という要職に就いた。

そして1873年(明治6年)、西郷隆盛とともに、不平士族を動員して朝鮮を武力で開国させようとする「征韓論」を主張した。

しかし、岩倉遣欧使節団が帰国すると大久保利通らと対立し、ついに下野する。
以後、板垣は自由民権運動に邁進することとなった。

確かに、板垣は「自由民権運動の祖」と呼ぶにふさわしい人物であり、その最大の目的は国会・議会の開設と立憲政治の実現であった。

だが、その根底には、薩長藩閥に対する強い反発心という側面もあった。

すなわち、土佐藩が官軍として戊辰戦争で徳川幕府を倒したにもかかわらず、明治政府の実権を薩長が独占したことへの反発。

いわば、倒幕を成し遂げた武士同士の意地と遺恨の延長でもあったのである。

画像:板垣退助(1883年頃) public domain

とはいえ、最後に板垣退助の名誉のために記しておかねばならないことがある。

それは「板垣死すとも自由は死せず」と伝えられる言葉が示す通り、板垣退助という人物の存在なくしては、日本に民主主義の芽が育つことはなかったということである。

晩年の板垣は、自由民権運動の資金を調達するために自宅を売却するなど、清貧そのものであったという。

そう考えると、自由民権運動とは、ひとたび決めた信念を貫き通した板垣の不屈の行動力の賜物であったといえよう。

※参考文献
中元崇智著 『板垣退助-自由民権指導者の実像』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

  • Xをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。
アバター画像

高野晃彰

投稿者の記事一覧

編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

草の実堂Audio で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. なぜ静岡県が「お茶」の名産地になったのか?
  2. 江戸時代の77人の侍がハワイからワシントンへ 【万延元年遣米使節…
  3. 大政奉還の裏側について調べてみた【徳川慶喜の切り札とは?】
  4. 青年期の西郷隆盛について調べてみた【西郷どん】
  5. 「琉球は中国のもの」は本当か?日本と中国の”琉球王国”歴史認識の…
  6. 明治時代、徴兵された兵隊はどんな暮らしをしていたのか?元自衛官が…
  7. 東京駅の謎 「なぜ日本初の駅とならなかったのか?」
  8. 武士だけに許された「切腹」の歴史と作法 【11人の凄絶な切腹にフ…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

『巨大恐竜展2024』に行ってみた ~巨大恐竜パタゴティタン全長37mの迫力!

関帝廟から巨大恐竜展へ先月、横浜の関帝廟で関聖帝君と対面した筆者と友人は、パシフィコ横浜…

『大奥や大名家の女性59人を抱いて死刑』モテすぎた僧侶・日潤が起こした「延命院事件」

仏教には「女犯」(にょぼん)という言葉があります。日常的に聞かない言葉ですが、原則と…

岸田・ユン時代の日韓関係を振り返る ~日韓関係の新たな局面とは

2023年5月7日から8日にかけ、岸田総理が韓国・ソウルを訪問し、ユン大統領と会談した。前回…

LINE Clova WAVE について調べてみた

以前、「Google Home」「Amazon Echo」と調べてみて、それぞれの違いを感じましたが…

徳川埋蔵金は現代の価値に換算するといくらだったのか?

徳川埋蔵金伝説とは?日本各地には、たくさんの埋蔵金伝説が残っています。徳川幕府は260年…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP