2025年8月15日は、戦後80年という節目の終戦記念日にあたります。
8月に入ると、広島や長崎での原爆犠牲者慰霊式典や、地上戦の舞台となった沖縄での追悼行事、ひめゆりの塔での式典などが、テレビなどで報道されます。
太平洋戦争では、東京大空襲をはじめとする各地への空爆でも多くの民間人が犠牲になりました。
また、戦没者の大半は召集令状(通称「赤紙」)で戦地に送られた兵士たちです。
こうした戦没者を悼むため、政府は毎年「全国戦没者追悼式」を開催し、その様子が報道されています。
全国には、軍人や民間人を問わず戦没者を慰霊する碑や施設が数多くあり、今も各地で追悼行事が続けられています。
今回は、筆者の地元・大阪に残る戦没者慰霊碑や施設に足を運んでみました。
大阪市住之江区にある大阪護國神社の慰霊碑

画像:大阪護國神社 鳥居 筆者撮影
戦没者慰霊と聞いて多くの人が思い浮かべるのが、全国各地にある護国神社です。
筆者は、地元の大阪護國神社を訪れるのは、今回が初めてでした。
大阪護國神社は、大阪メトロ四つ橋線の終着駅・住之江公園駅を出てすぐの場所にあります。
この神社は、国のために命を落とした英霊を祀る目的で、1940年(昭和15年)5月4日に鎮座祭が行われました。
当初は仮社殿での創建でしたが、現在は日清戦争・日露戦争・太平洋戦争などで戦没した大阪府出身者や、縁故のある105,665柱の英霊を祀っています。
住之江通に面した大阪府最大の鳥居をくぐると、石畳の参道が本殿まで続き、その両側には数多くの慰霊碑が立ち並びます。
本殿に向かって右手には陸軍関連、左手には海軍関連の慰霊碑が配置され、錨や飛行機をあしらったものも見られます。

画像:大阪護國神社の陸軍慰霊碑 筆者撮影

画像:大阪護國神社の海軍慰霊碑 筆者撮影
これらは太平洋戦争時の連隊や部隊ごとに建立されたものが多く、各部隊の歴史や背景を今に伝えています。
大阪護國神社に並ぶ多くの慰霊碑は、いずれも手入れが行き届き、良好な状態が保たれていました。
この護持を担う尊崇会の会員は現在300名弱で、そのうち遺族会員はおよそ40名にとどまっているそうです。
大阪府の人口約880万人、そして祀られている戦没者105,665柱という規模を考えると、支える人員は決して多いとはいえません。
街中に残された戦死者の慰霊碑
大阪護國神社の慰霊碑とは別に、街中に建てられた慰霊碑を探し、下町の風情が残る近鉄八尾駅周辺を歩きました。
最初に訪ねたのは、河内音頭発祥の寺院として知られる常光寺です。
境内には、昭和13年に中国・北京郊外で編成された大隊の第四中隊の関係者が、無事に帰国できたことを記念し、昭和58年に建立した碑がありました。

画像:常光寺にある慰霊碑 筆者撮影
その碑には「万世和平」と刻まれていました。
続いて、常光寺の近くにある八尾神社を訪ねると、「従軍記念碑」と記された慰霊碑が建っていました。
このように、街中の神社や寺院の境内には、生還への感謝と戦死した仲間への追悼の思いが込められた慰霊碑が、ひっそりと建っていました。
京橋大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
太平洋戦争では、原爆以外にも1トン爆弾による空襲で、多くの一般市民が東京や大阪を中心に犠牲となりました。
今回訪ねたのは、終戦前日の1945年8月14日に起きた、大阪・京橋の大空襲で亡くなった方々を慰霊する場所です。
大阪市内では6回の大空襲があり、この日にはB29が145機飛来し、当時の大阪城駅と京橋駅の間にあった陸軍砲兵工廠を狙って、650発もの1トン爆弾が投下されました。
その一部が近くのJR京橋駅を直撃し、駅舎は吹き飛び、500〜600人の市民が命を落としました。身元が判明しているのはわずか210人に過ぎません。
慰霊の場所はJR京橋駅南口のすぐそばにあり、南無阿弥陀仏と刻まれた仏式の墓碑と納経塚が祀られています。
その横には、近年設置された平和を願う像も立っています。

画像:京橋大空襲慰霊碑 筆者撮影
慰霊碑の前では、毎年JR京橋駅によって慰霊行事が行われています。
遺族の数は年々減っているものの、この場所が風化することはないと感じられました。
自治体が管理運営する慰霊施設
全国には、自治体が維持管理する戦没者慰霊施設もあります。
その一つが、東大阪市の八戸ノ里公園内にある慰霊施設です。
昭和38年(1963年)に旧布施市が設けたもので、現在は東大阪市が管理しています。
建設当初は、主に空襲で亡くなった一般市民を慰霊することを目的としていましたが、戦地で亡くなった方の遺族による慰霊も可能です。
施設は手前に拝殿風の建物があり、その奥にもう一棟の建物と大きな慰霊碑が配置されています。
開門日は月に1、2回で、訪れた日は内部に入れず、どのようになっているかを確認することはできませんでした。

画像:東大阪市の慰霊施設 筆者撮影
このように、自治体が維持・運営する慰霊施設は、空襲などで亡くなった一般市民を慰霊する目的で建てられた例が多く見られます。
終わりに
今回訪ねた慰霊碑は、現在のところ倒壊の恐れや、荒れ果てた感じはありませんでした。
とはいえ終戦から80年が経ち、戦没者の遺族は子世代から孫世代へと移り、数も減少を続けています。
少子高齢化などで墓地の無縁化が進む中、戦没者の慰霊碑だけが今後も問題なく維持され続けるとは限りません。
軍人と一般市民の双方を慰霊し、平和を祈念する場を自治体が設けて維持することは、その解決策の一つとなるでしょう。
東大阪市のような大規模な施設でなくとも、小さな町や村であれば、役場の敷地の一角に慰霊碑を建て、役場が管理し、終戦記念日に慰霊祭を行う形も考えられます。
こうした身近な自治体による慰霊行事は、戦没者を悼み、平和を願ううえで意義深いものだと感じました。
参考 : 『大阪護國神社 公式サイト』他
文:撮影 / 草の実堂編集部
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