ロシアで見つかった漢式の宮殿

画像 : 阿巴坎遺跡(タシェビン宮殿遺跡)の出土品展示 public domain
20世紀半ば、第二次世界大戦のさなかにあったソ連・ロシアの南シベリア地方で、思いがけない大発見があった。
ハカス共和国アバカン市の郊外で建設工事をしていた労働者たちが、地中から人工的に加工された石材を掘り出したのである。
さらに掘り進めると、約2000年前、漢代に築かれたとみられる壮大な宮殿状の建築物が姿を現した。
この遺跡は「阿巴坎(アバカン)遺跡」と呼ばれる。
調査にあたったソ連考古隊は、1941年から1946年にかけて系統的な発掘を行った。
その結果、遺構の規模はおよそ1500平方メートル、中央には12メートル四方の大殿を備え、周囲には20室近い房屋が連なっていたことがわかった。
壁の厚さは2メートルにも達し、さらに冬の寒さをしのぐための暖気通路や火盆跡も確認されている。

画像 : 阿巴坎遺跡の復元模型(ミヌシンスク博物館展示 Anadolu-olgy撮影 CC0 1.0)
出土品の中には、中国漢代特有の瓦当(がとう)が含まれていた。
瓦当(がとう)とは、古代中国の建築で、軒先を飾る丸瓦の先端部分である。
雨水から建物を守る実用性に加え、表面に花や動物などの模様を刻み、建物の格や権威を示す役割を持った。
特に秦漢時代の瓦当には、「千秋万歳」「長楽未央」といった、おめでたい言葉が刻まれることが多かった。
発見された瓦当には「天子千秋万歳常楽未央」といった漢字が刻まれており、この建築が単なる模倣ではなく、中国漢王朝の宮殿様式を忠実に取り入れたものであることを示していた。

画像 : 阿巴坎(アバカン)遺跡から出土した瓦当。「天子千秋万歳常楽未央」と刻まれている。public domain
その他にも、玉器、銅製の飾具、陶器、獣首をかたどった装飾などが発見された。
この遺跡が発見された場所は、古代には匈奴の勢力下にあった堅昆(けんこん)の地で、エニセイ川上流域にあたる。
つまり、ロシアのシベリア内陸に、漢代中国式の大規模宮殿が建設されていたという事実が浮かび上がったのである。
考古学界は驚きをもってこれを迎え、誰がこの宮殿の主人であったのかをめぐり、現在に至るまで議論が続いている。
名将・李陵とは
阿巴坎遺跡の有力な被葬者候補として最も注目されてきたのが、西漢(前漢)の将軍・李陵(りりょう)である。

画像 : 李陵(りりょう)像 public domain
李陵は「飛将軍」と称された名将・李広の孫として、紀元前2世紀の半ばに隴西成紀(現在の甘粛省天水市付近)に生まれた。父は李当戸と伝えられる。
若いころから騎射に優れ、勇猛で部下を思いやる気質を持っていたため、兵士からの信望は厚かった。
第7代皇帝・漢武帝もその才能を見抜き、李陵を侍中や建章監といった近衛職に抜擢した。
さらに彼は騎都尉に任じられ、現在の甘粛省西部にあたる酒泉や張掖に駐屯する部隊の指揮を任された。そこで、江南の丹陽郡から集められた楚人の兵五千人を率い、精鋭の弩兵として鍛え上げていった。
その戦歴の中でも、とりわけ注目されるのが、前99年に起きた対匈奴戦である。
匈奴(きょうど)とは、当時モンゴル高原を拠点に勢力を広げた遊牧民族で、漢と幾度も戦火を交えた最大の宿敵であった。

画像 : 漢と匈奴の勢力図 CC BY-SA 3.0 トムル
李陵は本来、補給を担う予定だったが、自ら出撃を願い出た。
武帝の許しを得て、わずか五千の歩兵を率い、三万を超える匈奴騎兵の包囲網に挑んだのである。
この時の李陵の戦いぶりは、まさに「以少制多(少数の兵で大軍を食い止める)」の典型とされるほどであった。
強弩を駆使して匈奴の突撃を退け、数千の敵兵を斬り伏せたという記録も残る。
だが、圧倒的な兵力差と援軍の不在により、次第に彼の運命は大きく狂い始めるのである。
悲劇の投降
序盤戦こそ匈奴を撃退した李陵だったが、持久戦に持ち込まれ、漢軍は次第に劣勢に追い込まれていった。
戦いが長引くにつれ兵士は疲弊し、矢も糧食も底をついた。兵器を失った兵たちは車輪の輻を折り取って奮戦し、血路を開こうとした。
やがて副将の韓延年(かんえんねん)が戦死し、軍の結束は大きく揺らぐ。
さらに将校の管敢(かんかん)が裏切り、匈奴に投降して兵力や配置を漏らしたことで、戦況は決定的に不利となった。

画像 : 追い詰められる李陵の軍 イメージ 草の実堂作成(AI)
匈奴軍は総攻撃を仕掛け、四方から矢の雨を浴びせる。
李陵軍は退却を試みたものの矢は尽き、追撃を振り切る術はなかった。
塞(さい 国境の砦)まで百里余りの地点で李陵はついに捕らえられ、五千の兵のうち生還できたのはわずか数百名にすぎなかった。
この敗戦の報は長安に届き、朝廷に衝撃を与えた。
さらに、長安にもたらされた情報の中には誤解が含まれていた。
「李陵は捕らえられたあとに匈奴に味方し、軍略を授けた」とする風聞が広まり、それが彼の運命を決定的に変えてしまった。
武帝は激怒し、一族を誅殺。廷臣たちもこぞって李陵を「降将」と非難した。
そんな中でただ一人、『史記』を著した太史令・司馬遷が「李陵は寡兵で奮戦し、罪はない」と弁護したが、かえって武帝の怒りを買い、宮刑に処されるという悲劇も招いた。
異郷での余生と残された伝説
こうして捕虜となった李陵は、故国に戻る道を断たれた。
匈奴の単于(ぜんう 君主の称号)は彼を厚遇し、娘を妻に与えて右校王に封じ、李陵は異民族の将として二十余年を過ごした。
その間、彼はかつての同僚であり、匈奴に捕らえられて長年牧羊を強いられていた漢の使者・蘇武(そぶ)と再会する。
李陵は、降伏して匈奴に仕えるよう説得したが、蘇武は「国の恩に殉ずる」と固く拒んだ。
最終的に二人は涙ながらに別れを告げ、その場面は「蘇武李陵の泣き別れ」として後世の文学や絵画に繰り返し描かれることとなる。

画像 : 漢に帰還する蘇武を、李陵が涙ながらに見送る場面 public domain
そして前74年、李陵はついに異郷で病没した。
おわりに
20世紀にロシア・アバカンで発掘された宮殿遺跡は、しばしば前漢の将軍・李陵の名と結びつけられてきた。
瓦当に刻まれた「天子千秋万歳常楽未央」の銘文は、まさに漢式の威容を物語るものであり、「李陵と匈奴の妻の宮殿ではないか」と今も注目されている。

画像 : 李陵塔。中国甘粛省天水市に所在する李陵を祀る塔 Underwaterbuffalo CC BY-SA 4.0
もっとも、李陵説のほかに、新朝末に「漢帝」を僭称した盧芳(ろほう)説、前漢から匈奴へ嫁いだ王昭君の娘・須卜居次云(しゅほくきょじうん)に帰する説も存在し、議論は現在も続いている。
確かなことは、この宮殿そのものが、漢と匈奴の歴史を語りかけてくる存在だという点である。
阿巴坎遺跡は、ただ一人の将軍の物語に収まらず、二千年前の東西の政治と文化が交錯した舞台そのものなのである。
参考 :
班固『漢書』巻五十四「李廣利李蔡陳湯傳」司馬遷『史記』
A.A. Kovalyov, Chinese Emperor on the Yenisei? 2007 他
文 / 草の実堂編集部
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