平安時代

『富士川の戦い』本当に平家は「水鳥の羽音」で敗走したのか?史実か創作か

「平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍が、夜間に水鳥の羽音に驚いて敵前逃亡した」

この有名な逸話は、鎌倉幕府の編年史である『吾妻鏡』や、軍記物語として語り継がれた『平家物語』に記され、富士川の戦いを象徴する出来事として広く知られている。

しかし戦後になって、この逸話に疑義を呈する言説が生まれた。

作家の吉川英治は、著作である『随筆 新平家』において、平家方が水鳥の羽音を敵襲と勘違いし逃亡したという筋書きを「余りに幼稚すぎよう」と否定する。
それに続いて「平家を走らせたものは、水鳥でなく飢饉である」と、気象統計を根拠とした研究を紹介している。

だが、平家方が水鳥の羽音に驚いて逃亡した、というエピソードは完全な創作なのだろうか。

また、富士川の戦いの中心人物は源頼朝であったとする『平家物語』や『吾妻鏡』の記述は、本当に史実なのだろうか。

『吾妻鏡』に描かれた合戦

画像:富士川 public domain

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』は、富士川の戦いを次のように記している。※以下意訳。

治承4(1180)年8月17日、長年伊豆で流人生活を送っていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて挙兵した。

8月23日の石橋山の戦いでいったんは平家方に敗れた頼朝だが、安房に落ちのびてから上総、下総、武蔵、相模を転戦。これと並行して、頼朝の命令を受けた甲斐源氏が挙兵した。

10月上旬、南関東一帯を制圧した頼朝が鎌倉に入ってから間もなく、武田信義をはじめとする甲斐源氏が駿河に侵攻。富士川の麓で平家方である目代(国司の代理である役人)の橘遠茂を撃破した。

そして10月16日、平維盛を大将とする数万騎の追討軍が駿河国へ入ったとの知らせを受けた頼朝は、20万騎を率いて西へと向かい、18日には黄瀬川において甲斐源氏の軍勢と合流。20日には富士川に軍を進め、追討軍と対峙した。

しかし、その夜半、思わぬ出来事が起きた。奇襲を狙った武田信義の兵に驚いた水鳥たちが一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた追討軍が大混乱に陥る。かくして、源氏は戦わずして勝利した。

『吾妻鏡』治承四年十月二十日条より

以上が『吾妻鏡』に描かれた顛末である。

戦前から圧倒的に不利だった平家方

画像 : 平維盛 歌川芳虎『大日本六十余将』public domain

急速に勢力を伸ばす頼朝や甲斐源氏に対して、平家方の対応は遅れた。

当時の情報伝達の遅さが原因になったのだろうか、9月に入ってからようやく追討軍の編成を始めた平家方は、平維盛を大将、伊藤忠清を次将として21日に新都福原を出発。

しかし、出陣の日取りをめぐる内部対立によって出陣はまたも遅れ、京都を発ったのは29日のことであった。

この初動の遅れは致命的であった。

『平家物語』は以下のように追討軍の様子を語っている。

「平家の追討軍は3万騎あまりを率いて、国や宿場ごとに追討の宣旨を読んだが、頼朝の威勢を恐れて従う者はなかった。駿河の清見関まで下ったけれども、国の者は誰も従わない」

『平家物語』「富士川」より

現地に行く間に味方が増えるに違いない、と思っていたであろう追討軍であるが、ふたを開けてみればそうはならなかった。
関東や東海における平家方の武士は源氏方に次々と敗れ、京都より東では追討軍に味方する者は誰もいなくなっていたのである。

これでは戦にならない。
10月の中旬に富士川の西岸に陣を張った追討軍であったが、その様子は惨憺たるものであった。

関白・九条兼実の日記『玉葉』治承4(1180)年11月5日の記述によると

「10月18日、追討軍は富士川に陣をしいた。翌19日に決戦するため、軍勢を数えると4000騎あまりであったのに、軍議をしているあいだに数百騎が敵に降ってしまった。その後も兵の脱走は止まらず、追討軍で残っているのはせいぜい2000騎になってしまった。対する武田信義の軍は4万をくだらない。これでは相手にならないと判断した追討軍は兵を引いた」

とある。

また、公家・中山忠親の日記『山槐記』によると頼朝の軍は「数万騎」と記されており、兵数に関しては両軍とも『吾妻鏡』『平家物語』が記した数よりずっと少なかったのだと思われる。

「水鳥の逸話」は創作ではなかった?

画像 : 富士川の戦いにおける水鳥の逸話。富士川の河畔に布陣する源氏軍と、水面から一斉に飛び立つ水鳥を描いた三枚続きの錦絵 歌川芳藤作 Public domain

こうして追討軍は、戦わずして撤退した。

この撤退の様子が、有名な「水鳥のエピソード」につながる。

『平家物語』では、次のように書かれている。

「十月二十三日の夜半、富士の沼に群れていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を源氏の襲撃と誤解した平家の兵たちは大混乱に陥り、我先にと逃げ去った。その有様は凄まじく、弓を取る者は矢を忘れ、矢を取る者は弓を忘れ、他人の馬に乗る者もあれば、自分の馬を他人に奪われる者もいた。つないだ馬に跨がれば杭の周囲をぐるぐると駆け回る始末で、近隣から呼び寄せていた遊女たちも踏み倒されて悲鳴をあげるなど、潰走は無秩序をきわめていた。」

『平家物語』「富士川」より

さて、この「平家は水鳥の羽音に驚いて逃走した」という話だが、本当にそんなことがあったのだろうか。

創作めいた話にも見えるが、実は同時代の記録にも類似の記述が存在する。

公家・中山忠親の日記『山槐記』治承4年(1180)11月6日条には、次のように記されている。

「伊藤忠清らが戦意を喪失していたところ、宿の傍らの池にいた数万の鳥がにわかに飛び立ち、その羽音は雷のように響いた。官軍(平家)は源氏の軍勢が攻め寄せたのだと疑い、夜中に撤退した。」

これは中山忠親が現地で見聞きしたことではなく、戦の事情を知る者から聞いたという伝聞を綴ったものである。

だが、少なくとも当時の貴族のあいだではこのような話が広まっていたとみなしてよいだろう。

つまり『平家物語』の記述は、まるっきりの創作ではなかったのだ。

戦に参加していなかった頼朝

画像 : 源頼朝の肖像 public domain

富士川の戦いにはもうひとつ重要な点がある。

『平家物語』や『吾妻鏡』では、この富士川の戦いの中心にいたのは源頼朝であったかのように描かれているが、実際はどうだったのだろうか。

『玉葉』治承4(1180)年11月5日の記述によると

「10月16日に追討軍は駿河に着いたが、目代をはじめとする有力武士3000騎あまりは、甲斐の武田城を攻撃してことごとく討ち取られてしまっていた。目代以下80人あまりが首をはねられ、道端にさらされたという。10月17日、追討軍に武田から使者が来て、浮島ヶ原という場所で戦いましょう、という提案があった」

とあり、ここには頼朝の名前はまったく出てこない。

平家方が戦おうとしていたのも武田信義の軍であり、頼朝は現地にはいなかったのではないだろうか。

そもそも、甲斐源氏が頼朝の命令によって挙兵した、という『吾妻鏡』の記述が不可解である。

公家・吉田経房の日記である『吉記』は、治承4年(1180年)11月8日に

「11月7日、伊豆国の流人である源頼朝と、甲斐国の住人である武田信義に追討の宣旨がくだされた」

と記している。

武田信義が頼朝の影響下にあるのなら、このような書き方になるだろうか。
両者は上下の関係にない、お互い自立した別勢力であると世間に見なされていたのではないか。

不思議な点は他にもある。

『吾妻鏡』治承4(1180)年9月20日の記述には

「土屋三郎宗遠が甲斐へ向かった。頼朝が関東の精鋭を率いて駿河へ赴き、平氏の来陣を待ち受けるので、すぐに北条時政の案内で黄瀬川周辺へ来るようにと武田信義らに伝えたという」

とあるが、前述したように、まだこの時点では征討軍は都を出発していないのである。

頼朝が平家方の内部事情を知っていたとも考えられず、そうすると頼朝が甲斐源氏と黄瀬川で合流したという記述も信憑性があやしくなる。

プロパガンダとしての『吾妻鏡』

画像:『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 public domain

『玉葉』が語るように、史実における富士川の戦いは、甲斐源氏と平家方の追討軍によって行われた合戦であったのだろう。

では、なぜ『吾妻鏡』は、それを頼朝の主導で行われたかのように綴っているのだろうか。

それには、『吾妻鏡』が持つ政治性がかかわっている。

『吾妻鏡』は、「源頼朝が平家を打倒し武家政権を打ち立て、やがてその政治は天命を受けた北条氏に受け継がれる」という構成がなされている。

つまり、北条得宗家が執権政治の正当性を主張するためのプロパガンダであり、当然、政権の創始者である頼朝は美化される必要がある。

源頼朝と武田信義、そして平家との接点がうまれるこの戦いは、政治的な意図による改ざんにはうってつけだったのではないだろうか。
あたかも、頼朝が挙兵前から源氏一族の中心であったかのような書き方ができるからだ。

『吾妻鏡』に限らず、政権の公式記録には多かれ少なかれ政治的な意図による脚色や編集が加わるのが常である。

富士川の戦いにまつわる数々のエピソードは、その一端を示しているといえるだろう。

参考資料 :
『戦争の日本史6 源平の争乱』上杉和彦著 吉川弘文館
『敗者の日本史5 治承・寿永の内乱と平氏』元木泰雄著 吉川弘文館
『中世日本の歴史3 源平の内乱と公武政権』川合康著 吉川弘文館
『平家物語の合戦 戦争はどう文学になるのか』佐伯真一著 吉川弘文館
『現代語訳吾妻鏡1 頼朝の挙兵』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館
『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』籔本勝治著 中央公論新社
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

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