西太后とは

画像 : 西太后(慈禧太后)晩年の真影 public domain
清朝が衰退へと向かう時代に、帝国の命運を背負った女性がいた。
彼女の名は西太后(慈禧太后)。
半世紀にわたり実権を掌握し、今も語り継がれている存在だ。
本来は皇帝の生母という立場にすぎなかったが、幼帝・同治帝や光緒帝の後見として政権を掌握し、垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれる形で国家を事実上支配した。
これは、幼い皇帝の玉座の背後に簾(すだれ)を垂らし、その奥から太后が政務に口を出す制度で、名目上は皇帝が政務を執る体裁を取りながら、実際には太后が決定権を握る仕組みであった。
西太后が権勢をふるった時代、清朝は近代列強の圧力に揺さぶられ、国内は混乱と腐敗に覆われていた。
そうした激動の時代にあって、西太后は宮廷文化や建築にも強い関心を示し、頤和園の再建など後世に残る事業を行ったことでも知られている。
とはいえ、莫大な出費をともなう贅沢な暮らしぶりは当時から批判を集め、彼女は清末を象徴する存在であると同時に「浪費の象徴」としても語り継がれている。
では、もし彼女の一日の生活費を現代の価値に換算したら、どれほどの額になるのだろうか。
千種類を超える御膳「一口だけ」で撤去される食卓

画像 : 西太后の食事 草の実堂作成(AI)
宮女や太監(宦官)の回想によれば、西太后の食卓はまさに別世界だった。
毎日用意される料理は千種類を超え、さらに点心が四百種類ほど加わる。しかもそれらはすべて一流の料理人が腕を振るった最高級品で、金や玉の器に美しく盛り付けられた。
しかし、驚くべきはその食べ方である。太后は料理を一口だけ口にすると、すぐに下げさせたという。
歴史研究者の金易と沈義玲が、宮女・栄児の証言をもとに編纂した『宫女谈往录(きゅうじょたんおうろく)』には、西太后の食事作法について次のように記されている。
如果老太后尝了一口说一句‘这个菜还不错’,就再用匙酌一次,跟着侍膳的老太监就把这个菜往下撤,不能再留第三匙。假如要留第三匙,站在旁边的四个太监中为首的那个就要发话了,喊一声‘撤’!这个菜就十天半个月的功夫都不会露面了。
意訳 :
もし西太后が一口食べて「これは悪くない」と言えば、二口目までは出される。しかし三口目を置いておくことは決して許されず、そばに控える四人の太監の筆頭がすぐに「撤(下げよ)!」と声をかけ、その料理は片づけられた。そして十日から半月は再び食卓に上がることはなかった。
『宫女谈往录』伝膳より
このように、気に入った料理でも西太后は二口しか食さず、三口目を口にすることは決してなかった。
どれほどの御馳走が並んでも西太后が口にするのはごくわずかで、残りは廃棄されるか、下賜として宮女や太監の口に入ったという。
食材も調理技法も贅の限りを尽くした御膳が、ほとんど手を付けられず消えていく。その光景は、ただの浪費ではなく「権威を見せつけるための儀式」でもあった。
西太后の食卓は、味わう場というよりも、彼女の地位と権力を示す舞台だったのである。
化粧と衣装も桁違い 日替わりの贅沢

画像 : 西太后(慈禧太后)の便服 Public domain
食卓だけでなく、西太后の身支度もまた桁外れの贅沢さを誇っていた。
朝の化粧には、外国からの進貢品である高価な紅の化粧料や香粉が用いられ、専属の化粧係がつきっきりで手入れをした。
顔に塗る粉ひとつ取っても、石臼で丁寧にすり潰し、綿紙で漉してから温水で湿らせ、体温に近い加減に整えてから使用するという手間のかけ方であった。
夜になると、顔や首、腕にまで白粉をつける拭粉(ふくふん)が行われた。
眠る時でさえ、すっぴんではなく化粧を整えた姿でいるのが当たり前だったのである。
衣装についても同じである。
西太后の衣は、絹織物や錦繍、毛皮や宝石を散りばめた刺繍など、最高級の素材と職人技を集めたものばかりであった。
しかもそれらは毎日替えられ、着用後は入念に手入れされて再び保管された。
こうした化粧品や衣装の維持費は、一日で少なくとも数万元(数十万〜百万円規模)に上ったと考えられる。
宮廷を支えた膨大な人件費

画像 : 宦官に担がれた神輿に乗る西太后 public domain
千種類を超える料理や四百種の点心、豪奢な衣装や化粧品、そして四六時中仕える太監や宮女たち。
これらをすべて合わせると、西太后の一日がいかに莫大な支出であったかが見えてくる。
研究者や回想録をもとにした試算では、その生活費は現代に換算して一日あたり数百万元、すなわち日本円でおよそ1〜2億円前後とされる。さらに高めに見積もる説では、千万元規模、すなわち3〜4億円に達したとも言われている。
いずれにせよ、常識では考えられない浪費であることに変わりはない。
ただし、ここでいう生活費は西太后個人の身の回りの出費だけではなく、宮廷全体の維持・運営にかかる経費である。
紫禁城は数千人が働く巨大なシステムであり、どの時代の皇帝や后妃にも莫大な費用がかかっていた。
とはいえ、西太后の時代は特に食膳や祭礼に巨費を投じ、その浪費ぶりが際立っていたのである。
しかもこれは日常の出費にすぎない。誕生日や節句といった祝祭日になれば支出はさらに跳ね上がり、ときには国家の財政を揺るがすほどの巨額が投じられたという。
西太后の一日は、食と装い、そして無数の人々の労力が織り成す巨大な舞台だった。
その華やかさは清朝の権威を示す象徴であると同時に、衰退を早めた浪費の証でもあったのである。
参考 :『宫女谈往录』金易・沈義玲 『慈禧太后一日的开销大约多少』文学城論壇 他
文 / 草の実堂編集部
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