戦前、日本の舞台と映画で華々しく活躍した女優がいた。
彼女の名は、岡田嘉子(おかだよしこ)。
彼女は戦前を代表するスター女優のひとりだったが、陰には深い苦悩があり、映画『椿姫』の撮影を中断して姿を消すという衝撃的な出来事を起こす。
やがて戦時体制の影が濃くなる中、彼女は理想の演劇を求めて演出家の杉本良吉とともにソ連へ渡る。
世間を驚かせた「恋の逃避行」の果てに、二人はスパイ容疑で拘束されることとなった。
今回は、演劇人として生き抜いた岡田嘉子の生涯をたどる。
「妊娠、出産」するも女優の道を貫く

画像 : 岡田嘉子 「名流花形大写真帖」(1931年)より public domain
明治35年(1902)4月、岡田嘉子は広島市細工町(現・中区大手町)に生まれた。
父の岡田武雄は新聞記者で、和歌山や小樽など各地を転々とした。
家庭の移動が多かったため、嘉子は小学校だけで八校を変わるという落ち着かない幼少期を過ごしたが、その中で環境への順応力を身につけていった。
少女時代から舞台芸術に強く惹かれ、特に松井須磨子の情熱的な演技に感化されたという。

画像.松井須磨子 public domain
当時、女優という職業には偏見が根強く、両親の反対を恐れた嘉子は、まず女子美術学校(現・女子美術大学)西洋画科に入学する。
大正7年(1918)、卒業後に父が主筆を務める北海道小樽の『北門日報』に入社し、婦人記者として働いた。
その頃、東北地方の飢饉救済を目的とした慈善演芸会でヒロイン役を務めた嘉子は、初舞台の高揚に魅せられ、女優の道を志す決意を固める。
父は和歌山時代に親交のあった劇作家・中村吉蔵に相談し、大正8年(1919)、嘉子は中村を中心とする新芸術座に入団。翌年『カルメン』の舞台で初めて観客の喝采を浴びた。
その後、各地を巡る公演中に共演俳優との間に子を授かり、大正10年(1921)2月に長男・博を出産する。
当時は女性の処女性が重んじられ、未婚の妊娠は女優生命にかかわる重大な事とされたため、博は嘉子の父の子として届け出られ、戸籍上は弟とされた。
それでも嘉子は舞台の道を諦めず、表現者としての人生を歩み始めたのである。
舞台スターから映画のトップスターとなる

画像 : 岡田嘉子 public domain
大正10年(1921)11月、嘉子は舞台協会の帝劇公演『出家とその弟子』(倉田百三作)で、若い僧と恋に落ちる遊女の役を演じ、観客の注目を一身に集めた。
相手役を務めたのは劇団の中心俳優・山田隆弥であり、この作品の成功によって嘉子は新劇界を代表する若手女優の一人となった。
その後、舞台協会は映画制作に乗り出し、日活と提携する。
大正12年(1923)3月、嘉子は『髑髏の舞』でヒロインを演じ、銀幕デビューを果たした。
倉田百三の戯曲をもとにしたこの作品は、愛と欲望の心理を描く異色作として高く評価され、日本映画の表現を一段押し上げたと評された。
しかし、その年の関東大震災で下町の劇場は焼失し、活動場所を失った舞台協会は経営難に陥り、多額の借金も抱えた。
借金に苦しむ劇団を支えようとした嘉子は、舞台協会のリーダー的存在で恋人関係でもあった山田隆弥のために奔走した。

画像 : 山田隆弥 1920年の写真、満30歳 public domain
山田には、劇団の運営を支える年上のパトロン・高屋福子がいたが、関係がこじれる中、嘉子は「自分の力で劇団を救う」と決意し、日活京都撮影所と契約を結ぶ。
嘉子は当時としては破格の一万円を前借りし、その大半を劇団に渡した。(※当時の大卒の初任給は約40円)
この出来事は新聞で「一座を救うために身を売った女優」として報じられ、彼女は「大正のお軽」と呼ばれた。
※お軽とは、近松門左衛門の浄瑠璃『心中天網島』に登場する遊女で、恋に殉じて命を落とした女性。
その後も村田実監督の『街の手品師』(1925年)や『大地は微笑む』などで主演し、洗練された演技と知的な美貌で人気を確立する。
大正14年には、映画女優人気投票で第一位に選ばれ、日本映画界におけるモダン女優の象徴となった。
しかし、嘉子自身は映画スターという存在を「宣伝によって作られた商品」と冷静に見つめ、名声に安住することを良しとしなかった。
失踪事件を起こし、演劇界から追放される

画像 : 竹内良一 public domain
昭和2年(1927)3月、嘉子は映画『椿姫』の撮影中だったが、多額の借金、高屋と別れることができない山田との内縁関係のうとましさ、村田監督との役づくりの考え方のずれなど、多くの悩みを抱えていた。
共演俳優の竹内良一と心を通わせるようになった彼女は、撮影途中で竹内とともに突然失踪した。
この失踪は世間を騒がせ、新聞は「情死」「駆け落ち」とセンセーショナルに報じた。
嘉子と竹内はまもなく発見されたが、日活は両名を解雇した。
事件後、嘉子は竹内と結婚し、浅草の根岸興行に所属して『岡田嘉子一座』を結成。
全国各地を巡る興行生活に入った。
華やかな銀幕を離れた嘉子にとって、それは苦難と再起の旅でもあった。
苦労の巡業生活は5年程続いたが、昭和8年(1933)、嘉子は松竹から映画復帰の誘いを受け、日活時代の借金も肩代わりされて松竹に入社する。
しかし、人気の再燃には至らず、次第に舞台へと活動の重心を移していった。
昭和11年(1936)、井上正夫一座に加わり、再び新劇の舞台に立つ。
一方、プライベートでは、飲酒をすると攻撃的になる竹内との仲は冷え込んでいた。
昭和12年(1937)には別居を決意。
同年8月、明治座公演『彦六大いに笑う』で演技を酷評された嘉子は深く落胆したが、この舞台で演出を担当していた若手演出家・杉本良吉と出会う。
演技の相談を重ねるうち、二人は互いに強く惹かれ合った。
杉本は共産党員としての活動歴を持ち、執行猶予中の身でありながら病身の妻を抱えていた。
この出会いが、嘉子の人生を大きく転換させることになる。
ソビエトへの亡命を決行

画像 : 岡田嘉子 1935年頃 public domain
昭和12年(1937)12月、戦時色が強まる日本で、岡田嘉子と演出家・杉本良吉は、新しい演劇を学ぶための渡航を決意した。
戦時色が濃くなっていく日本で、杉本は「自分のもとに赤紙の招集令状がくれば、最悪の場所へ送られるかもしれない」と恐れていた。
また、演劇界も軍国主義の影響下で先行きは真っ暗だった。
そのような中で嘉子は「いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」と杉本に提案し、二人はソビエト亡命を決意したのである。
同年12月27日、二人は上野駅を出発し、北海道経由で樺太へ向かった。
翌昭和13年(1938)1月3日、敷香町の国境警備隊を慰問するという名目で詰所を訪れ、警備員の隙をついて猛吹雪の中をスキーで越境した。
嘉子はこのとき35歳であった。
日本では新聞が連日「女優岡田嘉子の失踪」と報じ、世間は騒然となった。
しかし、二人を待っていたのは理想とはほど遠い現実だった。
ソ連当局は入国直後に二人を逮捕し、スパイ容疑で別々に取り調べを行った。
嘉子はまもなく釈放されると信じていたが、過酷な尋問と独房生活が始まったのである。

画像 : 1936〜1937年頃、ソビエト連邦の強制労働収容所で働く囚人たち public domain
そして、言葉も通じない監獄生活が2年程続いたある日、嘉子は日本語が話せる係官から、杉本の死を知らされた。(死因は肺炎のためとされた)
ところが、スパイ容疑で取り調べを受けた杉本は、二人が国境を越えた翌年の昭和14年(1939)に銃殺されていた。その事実が明らかになったのは、半世紀後のことである。
杉本の死亡証明書を渡された嘉子は「今後どうするのか?」問われると、二人の目的をはたすためにモスクワ行きを希望した。
嘉子はその後も約十年間にわたりラーゲリ(強制収容所)や監獄を転々とし、再審請求を続けながらロシア語を学び、釈放後の生き方を模索した。
昭和22年(1947)ようやくモスクワ入りを許可され、翌年モスクワ放送局日本語課に勤務。
アナウンサーとして日本語放送を担当した。
その職場で、かつての共演俳優であり、敗戦後にソ連に残った滝口新太郎と再会する。
二人はやがて結婚し、嘉子は彼の勧めで国立演劇大学に入学。
森本薫作『女の一生』を演出するなど、演劇人としての新たな道を歩み始めた。
34年ぶりの帰国とその後
昭和31年(1956)に日ソの国交が回復すると、モスクワ放送で日本語放送を担当していた岡田嘉子の存在が、再び日本でも知られるようになった。
彼女は演劇関係者や旧友との往来を通じ、離れていた祖国とのつながりを少しずつ取り戻していった。

画像 : 1965年9月1日 ソ連の宇宙飛行士ヴァレンティナ・テレシコワとアンドリアン・ニコラエフ夫妻、日本の映画監督・岡田嘉子。クリミア・グルズフ Юрий Сомов CC BY-SA 3.0
私生活では、同僚で夫の滝口新太郎と穏やかな日々を過ごしていたが、昭和46年(1971)10月、滝口が肝硬変で他界する。
翌昭和47年(1972)11月、嘉子はその遺骨を抱え、34年ぶりに日本へ一時帰国した。
羽田空港での到着には多くの報道陣が詰めかけ、記者会見での落ち着いた口調と美しい日本語に、人々は深い感銘を受けた。
昭和49年(1974)に文化使節として再来日し、本格的に日本の舞台に復帰する。
劇団民藝公演『才能とパトロン』の翻訳と演出を手がけ、翌年には『島』『聖火』などで女優として再び脚光を浴びた。
1976年には山田洋次監督の映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で老舗旅館の女将を演じ、円熟した存在感を見せた。
そして、12年間にわたる日本滞在の後、嘉子は再びロシアでの暮らしを選んだ。
「自分から出ていった国で余生を送るより、第二の祖国で静かに生きたい」と語り、昭和61年(1986)春、ソ連へ戻った。
以後はモスクワで静かな生活を送り、平成4年(1992)2月、心不全のため死去。享年89。
晩年の彼女が口にした最後の言葉は、かつて杉本良吉から初めて教わったロシア語だったと伝えられる。
「スパシーボ(ありがとう)」その一語が、波乱の生涯を締めくくった。
参考 :
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社
日本テレビ放送網「人生を変えたパスポート」
文 / 草の実堂編集部
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