朝ドラ「ばけばけ」では、娘トキ(演・高石あかり)のために髷(まげ)を落とし、落武者ヘアとなってしまった司之介(演・岡部たかし)。
姿はかなりおかしいものの、かわいい娘の結婚を願う親心には、ジーンとくるものがありました。
それにしても、お見合いが行われたのは明治19年。
成り行き上、髷を落とした司之介はともかく、御一新から19年経っても、祖父・勘右衛門(演・小日向文世)は、髷を落とすつもりはないようです。
いったいいつまで武士は、ちょんまげを結い続けていたのでしょう?
東京では明治22年頃にはちょんまげが消滅

画像 : 丁髷(葛飾北斎)public domain
明治4年(1871)8月、政府は近代化政策の一つとして「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」を布告します。
「散髪脱刀令」は、男性が髷を落とす断髪と士族の帯刀を任意とするという、散髪と帯刀の自由を認めた法令で、一般に断髪令(だんぱつれい)といわれています。
この布告により、断髪する人たちが増えてはいきましたが、残念ながら、政府が期待するほどの効果はなかったようです。
その後、明治6年(1873)3月、明治天皇の散髪がきっかけとなり、庶民の断髪は一気に進みます。
とは言え、『明治事物起源』には「頭髪の百人百色なりしは、明治5、6年ころ最も甚だしく」と書かれており、この頃はまだまだ新旧ありとあらゆる髪型が混在していました。
その後の東京における断髪者の割合は、
・明治8年頃→25%
・明治10年頃→60%
・明治14年頃→80%
・明治16年頃→90%
という推移をたどり、明治21、22年頃には「全く斬髪のみ」の100%となりました。
このように、東京では明治22年頃にちょんまげは姿を消したようですが、断髪者の割合は地域によって隔たりがあり、とくに断髪促進派の県令(現在の県知事)が赴任した地域では、早い時期から高い傾向にありました。
『明治事物起源』によると、明治5、6年頃の滋賀県では、髷のある者には税金が課せられたため、10人中8人から9人は断髪していたとあります。
また、愛知県では断髪者の割合が100%となっており、これは、ちょんまげ廃止の法令が出されたため、法令を破って髷を結っているところを邏卒(らそつ、現在の警察官)に見つかると、その場で髷を切られてしまうからだそうです。
そして、三重県は10人中3から4人程度で、浜松県より東に行けば行くほど、ちょんまげが多かったとも伝えています。
余談ですが、男性対象の「散髪脱刀令」が、女子にも適用されると勘違いした女性が短髪にしてしまうという珍事が起こり、明治5年(1872)5月11日、東京府は「女子断髪禁止令」を出しています。
武士受難の時代

画像 : 職人のちょんまげ 1890年 ロバート・フレデリック・ブルム画 public domain
「散髪脱刀令」によって、もっとも大きな影響を受けたのは、以前は「武士」とよばれていた士族でした。
というのも、この法令は士族の象徴であった「ちょんまげ」と「帯刀」のどちらも、自らの意志でやめることを認めるものだったからです。
江戸時代以来、ちょんまげには、その結い方によって身分や職業を示すという重要な役割がありました。
武士は銀杏髷(いちょうまげ)を長くして月代(さかやき)を狭くする大銀杏を好み、町人は少し小ぶりな小銀杏を好みました。
町人のなかでも商人はさらに小さく控えめな髷を結い、大店の若旦那は細い本多髷で優男感を演出。
一方、職人は男っぽく太く短めな髷にするなど、髷はその人となりを表す重要なものだったのです。
特に武士にとって髷は単なる髪型ではなく、身分や誇りの証明であり、それを切ることは、己の存在を否定することにつながりました。
しかし、「散髪脱刀令」は、政府が推し進める士族解体への序章に過ぎませんでした。
明治6年(1873)には徴兵令によって武人としての役目が失われ、明治9年(1876)の廃刀令では帯刀の特権が奪われました。
さらに同年、秩禄処分によって俸禄を失うに至り、版籍奉還から始まった一連の政策によって特権は完全に剥奪され、士族は解体しました。
その後、かつての武士たちは、人生を否定された身を切るような痛みを感じながら、諦念とともに世の中で生きていく術を身につけ、少しずつ新しい時代に適応していくしかなかったのでした。
「髷は武士の魂」一生髷で通した侍

画像 : 榊原鍵吉 public domain
すべての特権を奪われ、新しい世には無用の烙印を押されてしまった武士にとって、髷は唯一残された自身の存在証明だったのかもしれません。
明治時代、武士の魂である髷を落とさずに、自らの信念を貫いた侍は多数存在しました。
島津久光・忠義親子や元幕臣で剣術家の榊原鍵吉(さかきばら けんきち)は、生涯を通じて髷を切らず、武士としての矜持を守り抜きました。
さて、朝ドラ「ばけばけ」の勘右衛門殿は、生涯武士としての誇りを捨てずに髷を貫くのでしょうか。
今後、彼の武士としての生きざまに注目したいと思います。
参考 :
石井研堂著『明治事物起原』上,春陽堂,昭和19 国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
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