現上皇陛下の生前退位で浮き彫りになった譲位問題

画像:明仁天皇(現上皇) public domain
2016年(平成28年)7月13日、第125代明仁(あきひと)天皇、すなわち現在の上皇陛下が生前に皇位を皇太子・浩宮徳仁親王へ譲位する、いわゆる「生前退位」の意向を宮内庁関係者に示していたとして、NHKや毎日新聞など各種メディアが一斉に報じた。
当時、明仁天皇は82歳で、69歳の時には前立腺がん、78歳の時には心臓の冠動脈バイパス手術を受けられていた。
それでも、リハビリや運動に努めつつ、激務といえる公務に精力的に取り組まれていたものの、次第に耳が遠くなるなど体力面の衰えを自覚され、生前退位の意向を5年ほど前から周囲に伝えていたとされる。

画像:明仁天皇 燕尾服姿 public domain
ただ、天皇がご希望されても、生前退位は決して容易なものではなかった。
これは、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法の制定にあたり、起草の中心人物であった伊藤博文が皇室典範に譲位規定を盛り込むことを認めなかったこと、さらに戦後に制定された現行の皇室典範においても同様に天皇の譲位が規定されていなかったことによる。
そのような中、2016年(平成28年)8月8日、天皇はビデオメッセージにより『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』を公表した。
高齢に伴い、象徴としての務めを「全身全霊」で果たし続けることが難しくなりつつあるという思いを述べ、国民に理解を求めたのである。
この経緯を受け、2017年(平成29年)6月9日の参議院本会議において、『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が可決・成立し、同月16日に公布された。
そして、2019年(平成31年)4月30日に同法が施行され、翌5月1日午前0時をもって、天皇の地位とその職務は皇太子徳仁親王へと引き継がれたのだ。
こうして、天皇が譲位の意向を示されてから、実に約3年を経て、生前退位が実現することとなったのである。
天皇の一世一元は明治新政府により明確化された

画像:伊藤博文 public domain
ではここから、現上皇の円滑な生前退位を阻む要因ともなった皇室典範に、なぜ伊藤博文が譲位の規定を盛り込まなかったのかを考察していこう。
伊藤は、譲位に関する規定を設けなかった理由について、1889年(明治22年)に刊行された『皇室典範義解』の中で次のように述べている。
「権臣の強迫により両統互立を例とするに至る。しかして南北朝の乱またここに源因せり。」
これは口語的に言い換えると、
「権力を持つ臣下による圧力や介入によって皇位継承が乱れ、結果として南北朝の争乱を招いたのである」
という意味になる。
すなわち伊藤は、天皇が自ら譲位の意思を示すことが可能になると、周囲の政治勢力がこれを利用し、皇位継承に不正な影響を及ぼす危険性があるとしたのである。

画像 : 『神武天皇御尊像』1940年(昭和15年)北蓮蔵画 public domain
さらに、明治政府の基本理念である「王政復古」は、神武天皇の時代を理想とするものであった。
これは、歴史上で譲位が頻繁に行われるようになる以前の「天皇一世一元」のあり方へと立ち返ることを意味する。
そのため、制定された皇室典範には
「天皇崩ずるときは、皇嗣すなわち践祚し、祖宗の神器を承く」
と記され、天皇が即位する条件は「前の天皇が崩御すること」であると明確に定められたのである。
天皇の意思表示を恐れた薩長藩閥の官僚たち

画像 : 明治天皇 public domain
このような皇室典範の規定は、一見すると明治天皇とその皇統の安定を願ってのもののように思われる。
しかし、その真意はどこにあったのだろうか。
問題は「天皇が自ら譲位の意思を示すこと」を、伊藤をはじめとする明治新政府の中枢が極めて警戒していた点にある。
この天皇が自ら「意思を示す」という行為こそ、彼らが最も恐れたものではなかっただろうか。
戦後の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴」にして「日本国民統合の象徴」と規定された。
しかし歴史を俯瞰すると、時の為政者が天皇の主体的な意思を抑え、自らに都合の良い「天皇像」を作りあげた時代は少なくない。
そしてその姿が最も顕著に現れたのが、実は「天皇一世一元」制を確立した明治新政府であるといえよう。
伊藤をはじめ明治政府の指導層の多くは、もともと低い家格から成り上がった人物が多かった。

画像:島津斉彬 public domain
幕末期、彼らは薩摩の島津斉彬・久光、佐賀の鍋島直正、土佐の山内容堂といった有力大名の庇護のもと、その手足として働く立場にあった。
したがって新政府が成立した段階では、本来なら天皇を頂点とし、その下に有力大名や公家が要職を占める構造になるはずであった。
しかし、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争という武力を伴う政変が起こり、その力関係は大きく変容した。
この内乱の結果、新政府内では薩摩と長州の政治的影響力が圧倒的なものとなり、両藩出身の官僚たちは版籍奉還・廃藩置県によって藩との主従関係を断ち切るに至った。
そのとき彼らが新たに「盟主」として仰いだのが天皇である。
ただし、それはあくまでも政治的象徴=彼らが言うところの「玉」としてであった。
明治維新の指導者たちの多くにとって、天皇とは自らの政治権力を正当化し、国家統合を演出するための存在であり、「いかに天皇を戦略的に利用するか」こそが、彼らの最大の関心事であったのだ。
こうして、天皇の「意思により行われる譲位」に関する規定は、皇室典範から意図的に外されることになったと考えられるのである。
※参考文献
笠原英彦著 『皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』 中公新書刊
葉室麟著 『洛中洛外をゆく』 角川文庫刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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