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重陽の節句について調べてみた

重陽の節句

重陽の節句

旧暦9月は「三九日」と言い、9日・19日・29日が祭り日だと言う意味です。

中でも9日は重陽の節句で、正月7日の人日(じんじつ)・3月3日の上巳(じょうし)・5月5日の端午(たんご)・7月7日の七夕(しちせき)と並んで、年間の重要な五節句の一つに数えられています。

節句とは、中国の陰陽五行説に起源を持ち、季節の節目、節目に仲間・家族で集い、季節に相応しい料理を食べたりして過ごす伝統行事です。中国の「陰陽思想」では、この世の全てのものは「陰」か「陽」どちらかの属性を持つと言う考えがあります。

数字では偶数が「陰」奇数が「陽」を表し、3月3日や5月5日の奇数の並ぶ日は、「陽」が重なるとかえって「陰」が生ずるとして、避邪の行事を行い無病息災を願いました。特に9月9日は陽の気が極まった特別な日とされます。

もともとの謂れ

本家中国での重陽の節句とはどのようなものだったのでしょう。

6世紀中ごろの中国の年中行事をまとめた本「荊楚歳時記」によると、

『9月9日には宴会を催す。いつの時代からの習俗かは伝わっていないが、後漢の時代にはすでに行われていた。現在北人(長江以北に住む人々)もこの節会を重んじて、茱萸(ぐみ)の枝を腰に下げ菊酒を飲めば、長寿を得られると伝わる。近代ではみな高い櫓を建て、そこに宴席を設けて酒を酌み交わす』

とあります。

『茱萸の枝を腰に』云々にも謂れがあり、後漢の有名な方士・費長房は弟子の桓景に「今年9月9日汝の家に災いあり、当日紅絹(もみ)の袋に茱萸の実を入れて腰に下げ、一族うち揃いて山に登り菊酒を飲めば、災いを免るるを得ん」と教えました。桓景は師の教えを守り、当日一族を連れて山へ登り一日暮らして夕刻家へ戻ると、飼って居た牛や鶏が身代わりになって死んでいたそうです。

この災いを免れるお話が長寿を得るに変わって行き、現在の“重陽の節句”の元となりました。

日本での広まりは何時頃か

天長11年(834年)に施行された “養老令”に『凡そ正月1日、7日、16日、3月3日、5月5日、7月7日、11月大嘗祭、これ皆節日となす』と列記されていますが、この中に9月9日は含まれていません。

しかし延長5年(927年)の“延喜式”には、節会を大儀・中儀・小儀に分けてそれぞれの儀式の詳細を書いていますが、この中で9月9日は小儀に加えられています。

さらに平安時代の源高明によって書かれた有職故実・儀式書の“西宮記(さいぐうき)”には、『9月宴で茱萸袋御帳に掛け、御前に菊を立て』とあり、このころには宮中の儀式に取り入れられていました。

平安時代末期の“東宮年中行事”には、典薬・図書寮らの女官が菊と呉茱萸を奉じ、蔵人がこれを昼御座の柱に結び付けたとの一文があります。そして端午の節句のおりに結んだ菖蒲がまだ柱に残っていれば、それを解いて替わりに呉茱萸を結び付けると続き、この頃には端午の節句と同格に扱われていたことが伺われます。

しかし何と言っても古文に書かれた中で一番有名なのは、枕草子第七段の五節句についての記述でしょう。

『9月8日は暁方より雨少し降りて菊の露もしとどに、覆いたる綿などもいたく濡れ、移りの香ももてはやさる。翌朝は雨止みたれど、なお曇りてややもせば降り落ちぬべく見えたるおかし』

とあります。

日本独自の菊のきせ綿

ここに出て来る「覆いたる綿」とはどのようなものでしょう。

綿と言っても蚕の繭を引き延ばして作った真綿で、8日の夜から菊の花の上にかぶせて香りを移し、9日朝露が降りしっとりした所で身体や顔を拭い、長寿を願いました。これを「菊のきせ綿」と言いますが、実は中国の文献にはきせ綿に関する記述は見当たらないのです。

菊花の露が長寿をもたらすとの発想は、中国の菊慈童伝説が元になっています。誤って帝の枕をまたぎ深山に流された童子が、帝の仰せで毎朝ありがたい教えを唱えていたところ、傍らの菊の露が落ちた谷の水が甘露に変わります。

これを呑んだ童子は齢800歳を過ぎてもその顔は少年のままだったとされ、“菊慈童”と呼ばれます。

庶民も倣う菊酒

1月7日(人日)は本来は奇数が重なる1月1日(元日)でしたが、江戸時代に幕府が1月7日に入れ替え五節句として制定しました。

それまでは宮中や公家・武家など特定の階層の間で行われていた行事だったのが、庶民の間にも広まり定着しました。その頃の豪商の雛飾りや端午の節句の飾り物が、あちこちの博物館にも保存されています。

江戸時代京の都では宮中で重陽の節句の行事が行われますが、町中でも庶民が縹色(薄い藍色)の小袖を着て菊酒を飲み、蒸し栗を食べたり送り合ったりして互いの長寿を祝います。また乳母は自分が世話をしている子供に栗と餅を送り、その長寿を願いました。

現在でも京都では重陽の節句に関わる行事が行われています。市内の上賀茂神社では無病息災を祈る節会神事として、氏子の少年たちによる“烏相撲”が奉納されます。これは弓矢を持った刀祢(とね)が烏を真似て、「カーカーカー」「コーコーコー」と鳴きながらピョンピョン飛び跳ね、その後少年たちが相撲を取るユニークな行事です。

また嵐山の法輪寺では長寿を祈願する法要が行われ、本尊の虚空蔵菩薩に菊の花を捧げ能の“菊慈童”が奉納されます。

影が薄い重陽の節句

しかしここへ来て五節句の定義が怪しくなってきました。某通信販売誌に「五節句タペストリー」として5枚の写真が掲載されていたのですが、お正月・雛祭り・端午の節句・七夕と来て最後はお月見の写真でした。

それでなくても重陽の節句は五節句の中で影が薄いのです。日にちも近いと言うので混同されるのが「敬老の日」。片方は長寿を願い片方が長寿を寿ぐで、まぁ趣旨的にもそう離れてはいないのですが。

桃の節句・端午の節句は子供の祝い日であり、現代でも益々華やかに飾り付けられ祝われます。七夕も保育園・幼稚園では欠かせない行事ですね。人日はお正月とひとまとめにしてこれも祝われます。

それに比べてどうも重陽の節句は分が悪いですね。本来不老長寿の象徴であった菊の花も、すっかり仏様にお供えする花になってしまいましたし。

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