三國志

「三国志」を記述してきた歴史家たち【正史&演義】

「三国志」を記述してきた歴史家たち【正史&演義】

三国志」とは、三世紀の中国を舞台に「魏」の基礎を築いた『曹操』・漢の復興を目指した『劉備』・呉を自立させた『孫権』の三つ巴の戦いを繰り広げた時代を描いた歴史書である。「三国志」の魅力のひとつは、大スケールで繰り広げられる人間ドラマにある。

登場人物達は魅力にあふれ、生き方によってその「人物」だけでなく、時代を大きく左右するスケール感は、今もなお「心」を惹きつけてやまない。

しかし私達の知る『三国志』は大きく分けて2種類存在している。

正式な歴史書の『三国志』とは?

『三国志』には「正史:三国志』と「三国志演義」との二つが存在する。なぜ「正史」と「演義」と二つ三国志はできたのか?

歴史的背景から追ってみてみる。

陳寿(ちんじゅ):233年~297年

正史:三国志」は正式な中国の歴史書である。三世紀後半に陳寿がまとめたものである。
かつては蜀漢に仕えた歴史家で、後に西晋に仕える。もともと『蜀漢』に仕えていたため当時から、風当たりは強かった。陳寿は『諸葛氏集(諸葛亮の残した文を編集しまとめたもの)』が高く評価され『三国志』の執筆を許された。そして魏・蜀・呉の国ごと=「魏書」=30巻「蜀書」=15巻「呉書」=20巻 計65巻の歴史も執筆、人物ごとに「正史:三国志」としてまとめた。陳寿は『魏サイト』の役人だった為、魏を正統とする姿勢が随所見られるが、この時代を知る為の基本的な史料として高く評価された。しかし短く、簡略化された「歴史書」だった。
この様なスタイルを記伝体と呼ぶ。司馬遷(しばせん)の『史記』以来、中国の歴史書の伝統的なスタイルになっている。

裴松之(はいしょうし):372年~451年

東晋末から宋初期の歴史家、五世紀に宋の文帝に命じられ『』をつけ情報を補足した。
陳寿の簡素な「三国志」を補う為に200以上の当時の史料をそのまま引用した。裴松之の記した『注』の面白いところは、陳寿の記述が間違っている可能性について指摘しているだけでなく、様々な『別伝』などの資料の間違いを指摘しつつ、そのまま載せているところだ。
後世の「三国志演義」は、裴松之の『注』がついているものが主流になり、明らかに信用できない史料であっても『三国志演義』は面白いエピソードを取り入れた。

裴松之が取り入れた主な「史料」とは?

裴松之がそのまま引用した200以上ある「史料」から、主なものを紹介する。

〇後漢書
中国二十四史(正史)の一つ。編者は『范曄(はんよう)』432年に著したとされ、「三国志」よりも後に書かれたもので、後漢が滅びて200年以上経っている為、同じ「後漢書」という史料がいくつか残る。
〇魏書
「三国志」以前に王沈(おうしん)が書いた魏の歴史書。現存はしない。裴松之の『三国志』の『注』でもっとも多く引用した。
〇魏略・典略
『魏略』は『典略』の一部であるとも考えられる。『魏略』は紀伝体の史書で魏について記すが、『典略』は魏以外についても記している。
〇英雄記
成立年代不明。後漢末の学者:王粲(おうさん)ら数名による編纂とされ『英雄伝』は略称と考えられる。元本は早くに散逸した。
〇江表伝
具溥(ぐふ)による江南の士人達の伝記集。呉について知る事ができ、呉書で引用される。
〇漢晋春秋
後漢の光武帝から西晋の四代皇帝まで記す。劉備の蜀漢を正統とし、司馬昭が蜀漢を平定した後、漢が滅びたとする。
〇魏氏春秋
孫盛(そんせい)による編年体の魏の史書。史実を潤色してあることで有名で、裴松之も激しく批判している。
〇華陽国志
355年に編纂された巴(は)蜀の地誌。公孫述(こうそんじゅ)劉焉・劉備などの事柄が述べてある。現行の校正本も存在する。
〇趙雲別伝
蜀の将軍:趙雲の伝。散逸し現存せず。正史の趙雲の記述が短い為、裴松之が多く引用するが信憑性には疑問がある。

等々、たくさんの「史料」を元にして膨大な作品に仕上げた裴松之の「三国志」は、これはこれで素晴らしい「歴史書」になっているが、それにもう「一味」加えた人物がいた。

羅貫中:生没不明(1330年~1400年頃?)

元末から明初期の戯曲小説の作家である。陳寿や裴松之の「三国志」を元に『演義』を仕上げたのではないかとされている人物。

「演義」は史実が7割・フィクションが3割と言われており、蜀の劉備を正統な漢王朝の後継者であるという立場を貫いている点で『正史』とは大きく異なる。全120巻の校正。『水滸伝』もまた彼が手を加え、完成させたとも言われている(施耐庵(したいあん)が創作の説もある)

「正史」と「演義」の違いは?

『正史:三国志』魏書30巻 蜀書15巻 呉書20巻=全65巻
特徴=魏を正統化している。
「三国志演義」 全120巻
特徴=蜀を正統化している。

『大筋は同じだが、ディテールが違う』日本でなじみ深いのは『三国志演義』の方だとも言える点ではないだろうか。

では日本の中の『三国志』はどの様に浸透していったのか。

日本で知られる「三国志」の姿とは?

年代関連事項
769称徳天皇、大宰府に『三国志』を送る
1294『三国志平話」刊行
1689湖南文山『通俗三国志』の刊行が始まる
1897内藤湖南『諸葛武侯』上巻刊行
1897土井晩翠『星落秋風五丈原』を執筆する
1939吉川栄治『三国志』の連載が開始される
1966柴田錬三郎『英雄ここにあり』の連載開始される
1971横山光輝『三国志』の連載開始される
1974陳舜臣『秘本三国志』の連載開始される
1982NHK人形劇『三国志』の放送が始まる
1985コーエー『三国志』ゲーム発売される
1989渡辺精一『三国志人物事典』が刊行
1994王欣太、李學仁『蒼天航路』の連載が始まる
1996北方謙三『三国志』の書き下ろしが開始される
2001宮城谷昌光『三国志』の連載が始まる

日本ではゲームという形で「エンターテイメント・フィクション」として親しまれ、多いに魅力ある『三国志』として浸透している部分も、惹きつけてやまない魅力の一つではないだろうか。

曹操と曹休の墓

2009年に中国河南省安陽にて曹操らしき墓が発見され2018年に本物と発表された。2010年5月17日には河南省洛陽市孟仁県で曹休の墓が発見された。曹休は曹操の族子で魏の武将である。晩年は悪性の疱瘡を患い死去した。副葬品の印鑑の文字から「曹休」の墓と断定された。

三国志は歴史に浪漫を感じる壮大なスケールで今も尚発見があり、多くの人が魅了されるのは映画・漫画・人形劇・ゲームと時代と共に『三国志』が共に進化し続けている証拠だと思う。自分にとって一番楽しめる『三国志』の形が「正史:三国志」ではないだろうか。と思えるのは自分だけだろうか

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