三國志

郭嘉とは【若くしてこの世を去ったアウトロー天才軍師】

若くしてこの世を去った天才軍師

郭嘉とは

※郭嘉

三国志ファンの間で「人材コレクター」の異名で知られる曹操は、その名の通り生涯を通して多くの優秀な人材を集めていた。

数ある曹操の「人材コレクション」の中でもその高い能力で特に目を掛けられていたのが郭嘉奉孝(かくかほうこう)である。

読み」に優れ、まるで未来が見えているかのように先を見通した郭嘉の策によって曹操軍は勝利を重ね、曹操も郭嘉の才能を高く評価して「私の覇業を成し遂げさせてくれるのはこの男だ」と最大級の賛辞を贈っている。

しかし、郭嘉は38歳の若さでこの世を去り、曹操の覇業を最後まで見届ける事はなかった。

曹操は郭嘉の早すぎる死を誰よりも惜しみ

哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)

という言葉を残しており、赤壁の戦いで敗れた時は「郭嘉がいればこのような事にはならなかっただろう」と嘆いている。

今回は、短い生涯で曹操に大きな影響を与えた郭嘉の足跡を調べてみた。

曹操との出会い

郭嘉とは

※『三国志演義』で挿絵で描かれる一般的な曹操の肖像画

郭嘉は最初に袁紹と面会しているが、袁紹は天下を取れる男ではないと見て仕官せずに去っている。

一方その頃、曹操も謀臣として重用していた戯志才(ぎしさい)を亡くしており、彼に代わる後任を探すため軍師の荀彧(じゅんいく)に相談していた。

曹操から相談を持ち掛けられた荀彧が推挙したのは、自身と同じ潁川出身の郭嘉だった。(余談だが、戯志才も潁川の出身である

郭嘉は曹操と対面すると、天下に付いて議論する。

初対面ながら曹操と郭嘉は意気投合して、曹操は「私の覇業を成就させてくれるのはこの男だ」と郭嘉を気に入り、郭嘉も自分が仕えるべき主君に出会えた事を喜んでいた。

なお、郭嘉の性格は人格者と呼べるものではなく、放蕩無頼な性格であり私生活は乱れたものだった。

曹操配下の中で特に規律と品行にうるさい陳羣(ちんぐん)は、郭嘉が模範的行動を心掛けていないと曹操に訴えていた。

曹操は「彼らしい」と一言言うだけで郭嘉を罰する事はせず、陳羣の公正さを重んじる性格と態度にも満足していた。

結局、郭嘉のアウトロー的な態度と私生活は死ぬまで改まる事はなかった。

軍師として活躍

晴れて曹操軍の軍師として採用された郭嘉は、自身の持ち味である読みの鋭さを活かしたアドバイスで貢献する。

郭嘉とは

官渡の戦い前の198年勢力図 wiki public domain

徐州で反旗を翻した劉備を攻める準備を進める一方で、曹操は許昌を空けた隙を袁紹に狙われないか心配していたが、郭嘉の言う通り攻めて来る事はなかった。

官渡の戦いでは袁紹とともに曹操の脅威だった孫策に攻められる危険があったが、孫策も郭嘉の読み通り暗殺されている。(郭嘉の読みは人物の性格を完璧に把握しているからであり、読みの鋭さはそれだけ人を見抜く力があったとも言える

また、郭嘉は劉備が将来的な脅威になる事を見抜いており、曹操は劉備を早いうちに取り除かなかった事を後悔したという。

官渡の戦いから程なくして袁紹は病死するが、依然として袁家の勢力は曹操以上に強大であり、簡単に勝てる相手ではなかった。

しかし、袁紹の息子達は不仲であり、袁譚袁尚の兄弟同士で争いを始めてしまう。

曹操はその隙を突いて勝利し、追撃しようとするが、郭嘉は「攻撃を続けて両者を団結させるよりも放置して再度同士討ちをさせるべき」との言葉に従って兵を引いている。

郭嘉の読みは正しく、袁譚と袁尚は曹操軍がいなくなると同時に再度争いを始め、曹操にとって最大の脅威だった袁家は自らの手で弱体化を招く事になり、207年に曹操によって滅ぼされる。

袁紹の死から曹操が袁家を滅ぼすまで5年という長い時間が掛かったが、状況に応じた進言によって郭嘉の果たした貢献度は非常に高かった。

突然の死

郭嘉の活躍によって曹操は河北を平定するが、帰還から程なくして郭嘉は病を得てこの世を去る。

38歳という早すぎる死を曹操は誰よりも悲しんだが、当時の曹操陣営の中で郭嘉は特に若く、曹操は天下を取ったら後事を郭嘉に託すつもりだったと語っている。

また、赤壁で敗れた時も「郭嘉がいれば…」と曹操は郭嘉の名前を出しているが、郭嘉は死の直前まで南方の疫病に付いて調べていた。

赤壁の戦いで曹操が撤退した理由はあくまで「疫病の蔓延」であり、郭嘉が生きて疫病対策を講じていれば違う結果が待っていたかもしれない。

なお、郭嘉は曹操に対して「南方は疫病が多いため自分は生きて帰れない」と方っており、自分がもう長くない事を示唆するセリフを残している。

郭嘉が病気に弱かったという記述も、既に重い病に犯されていたという記述もないが、曹操の中国統一のため郭嘉は荊州攻めを主張し、更には命を捨てる覚悟で南方攻めに参加するつもりでいた。

自分が死んででも曹操の大業を果たそうとした郭嘉の献身性を曹操は高く評価し、荀彧に対して「どうして彼を忘れられようか」と郭嘉の死を惜しむ手紙を書いている。

郭嘉の性格と生き様

38歳という短い生涯を全力で駆け抜けた郭嘉だが、放蕩無頼な性格で私生活も乱れていたという記述を見ると、現代人の目から見ても長生き出来ないように見える。

郭嘉の乱れた生活が早死ににどれだけ影響したかは不明だが、郭嘉の先を見通す力は自分の寿命まで見えていたという説もある。

(確かに長生き出来るような生き方をしていなかったが)自分は長生き出来ないと分かっていたから郭嘉は好き勝手に生きていたという説には証拠も根拠もないが、長生き出来ないからこそやりきって短い生涯を楽しんだというのは郭嘉「らしい」生き様ではある。

正史には病で亡くなったとしか書かれていないため私生活と病の因果関係は不明だが、曹操を数々の勝利に導いた慧眼は自分の死期も見えていたという説も、信憑性はさておき完全に否定する事は出来ない。

それは、本人のみが知る永遠の謎である。

 

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