日光東照宮に豪華な社殿を造った徳川家光

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
1616年(元和2年)4月17日、江戸幕府初代将軍・徳川家康は、駿府城にて満73歳で没した(享年75)
『本光国師日記』によれば、家康は自らの死期を悟った際、次のように遺言したという。
「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば増上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後、日光山に小き堂をたて、勧請し候へ。」
この遺言に従い、同年5月17日に増上寺で内々に葬儀が営まれ、遺体は駿府城の南東に位置する久能山、すなわち現在の久能山東照宮に葬られた。
翌1617年(元和3年)4月、日光に社殿が整えられ、同月8日に家康は奥院廟塔へ改葬された。

画像:日光東照宮奥社宝塔(家康墓)public domain
そして、一周忌にあたる4月17日には遷座祭(正遷宮)が行われ、2代将軍・秀忠をはじめとする公武の参列のもと、厳粛な祭礼が執り行われた。
ここに家康は、東照大権現(とうしょうだいごんげん)、つまり“関八州の守護神”として鎮座することになったのである。
今日、日光東照宮といえば陽明門をはじめ、江戸美術の粋を結集した絢爛豪華な社殿群で知られる。
しかし創建当初は、現在のような壮麗な建物はほとんど存在していなかった。
これを現在見ることができる、豪華な社殿へと大規模に造り替えたのが、3代将軍・家光だ。
家光は、1636年(寛永13年)、莫大な費用を投じて、東照宮の大造替を実施したのである。
ここからは、家光が日光東照宮に豪華絢爛な社殿を建立し、壮麗な宗教空間を創造した背景とその理由について考察する。
家光にとって祖父・家康はかけがえのない恩人だった

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託) public domain
徳川家光は1604年(慶長9年)7月17日、2代将軍・徳川秀忠と正室・江のあいだに誕生し、徳川家の嫡男として竹千代と名付けられた(秀忠の嫡子・長丸は2歳で夭逝している)。
しかし、その4年後に男子・国松が生まれる。
これが後の忠長であり、秀忠と江は竹千代ではなく、国松を偏愛するようになっていった。
その理由としては、竹千代が病弱であったことや吃音があったことが挙げられ、対して国松は、容姿端麗・才気煥発であったという。
それに加え、国松は江が手ずから育てた子であり、彼女にとってかけがえのない存在となっていたようである。
やがて秀忠と江は、将軍家の後継として竹千代ではなく国松に将来を託したいと考えるようになっていった。
こうして竹千代廃嫡の危機が迫ると、その乳母であった春日局は、駿府にいる家康に実情を訴えたと伝えられている。
これに対し家康は、長幼の序を明確にするように秀忠を諭し、これにより竹千代が将軍職に就き、3代将軍・家光となったのである。
日光東照宮大造替に対する家光のこだわり

画像:日光東照宮 陽明門 public domain
このような経緯から、家光は祖父・家康をかけがえのない恩人として深く敬愛していた。
そして、その家康の恩に報いるために着手したのが、日光東照宮の大造替である。
この造替には実に56万8000両という莫大な費用がかかったが、公的記録ではその実質的な全額を幕府が負担したとされる。
家康を祀る聖地なのだから、幕府が費用を持つのは当然と思われるかもしれない。
しかし当時の公共事業では、幕府が目を付けた大名に費用を負担させ、その財力を削ぐのが一般的であった。
そうした慣例の中にあって、家光はこのルールを完全に無視し、東照宮の造営には大名を一切関わらせなかった。
つまり家光は、恩人である家康の墓所の整備を自らと幕府の手のみによって行うことで、その恩に応えようとしたのである。

画像:日光輪王寺 大猷院霊廟仁王門 public domain
だが、家光の家康への深い思いは、それだけでは収まらなかった。
彼は、自分の死後の戒名を「大猷院(たいゆういん)」とし、死後も家康に仕えるために日光山に葬るよう遺言している。
そして、1650年(慶安3年)4月20日、江戸城内で亡くなると、日光山輪王寺の霊廟「大猷院」に葬られた。
その廟所は、心から尊敬していた祖父・家康が眠る東照宮に向かって建っているのである。
※参考 :
井沢元彦著 『学校では教えてくれない江戸・幕末史の授業』 PHP文庫刊
文:高野晃彰 文 / 草の実堂編集部
























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