西洋史

オランダとベルギーの原型?13世紀に海と都市を制したウィレム2世の統治

画像 : 13世紀前後の低地地方諸領邦(ホラント・ゼーラント・フランドル・ブラバントなど) 作者不詳 CC BY-SA 3.0

13世紀のヨーロッパ北西部、現在のオランダやベルギーにあたる低地地方は、神聖ローマ帝国の周縁に位置する地域でした。

海と河川に囲まれたこの地は、交易によって豊かさを蓄える一方、常に政治的緊張と隣り合わせでした。

都市と農村、周囲の領主たち、そして教皇と皇帝が入り乱れ、争いが繰り返される時代だったのです。

この不安定な世界に現れたのが、ホラント伯ウィレム2世でした。

画像:ウィレム2世 (ホラント伯)public domain

ウィレム2世は、海と都市を基盤とする一地方伯でしたが、やがて神聖ローマ帝国の王位争いという大きな政治の流れに巻き込まれていきます。

地方の一領主が、帝国全体の権力構造に関わる立場へ浮上することは、当時としても珍しい展開でした。

今回は、ホラント伯ウィレム2世の生涯を手がかりに、13世紀の低地地方と神聖ローマ帝国世界が置かれていた不安定な状況を追っていきます。

少年伯の挑戦 港湾都市を揺るがす力

画像:父フロリス4世 (ホラント伯) public domain

ウィレム2世は1227年頃、ホラント伯フロリス4世と、ブラバント公アンリ1世の娘マティルドとのあいだに生まれました。

しかし、その幼少期は決して平穏なものではありませんでした。

1234年、父フロリス4世がフランス北部コルビーで行われた騎士のトーナメント中に落命してしまったのです。

こうしてウィレムは7歳で伯位を継ぎ、幼くして領国の頂点に立つことになります。

実務を支えたのは、叔父のウィレムとウトレヒト司教オットーでした。
彼らの後見のもとで統治は維持され、成長したウィレム2世は次第に政治の前面に姿を現していきます。

彼が力を入れたのは、海と交易に支えられた都市の整備でした。

北海沿岸のハールレム、デルフト、アルクマールなどでは、都市権や市場権が与えられ、堤防の整備や埋立事業が進められていきました。
水の管理やインフラの整備が重ねられたことで、交易の動きも次第に活発になっていきます。

こうした変化は商人層の力を伸ばし、都市が自ら動く余地を広げていきました。
その結果、ホラントの経済基盤は徐々に安定し、低地地方のなかでも存在感を強めていきます。

1248年頃、ウィレムは拠点となる居所を定め、その周囲に統治のための施設を整えはじめました。

この場所が、のちにハーグとして発展していくことになります。

帝国の闇に挑む 伯の外交戦略

画像:第180代ローマ教皇インノケンティウス4世 public domain

13世紀半ばの神聖ローマ帝国では、皇帝の権威が安定していませんでした。

教皇インノケンティウス4世と、皇帝フリードリヒ2世の対立が続き、帝国では王位をめぐる争いが常態化していたのです。

1247年、教皇派が担ぎ上げていた対立王ハインリヒ・ラスペが死去すると、次の候補として浮上したのがウィレム2世でした。

母方のブラバント公家やライン地方の有力諸侯の支持を受け、教皇派の王としてドイツ王に選ばれたのです。

1248年、アーヘンで戴冠が行われたものの、王としての立場は決して盤石ではありませんでした。
都市や諸侯の反発もあり、実際に影響力が及んだのは、ライン周辺と低地地方が中心でした。

当時は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート4世も王を名乗っており、帝国には複数の「王」が並び立つ状態が続いていました。

ウィレム2世もまた、そのなかの一人として、限られた支持のもとで立場を保っていたにすぎなかったのです。

それでも彼は皇帝位への道を視野に入れつつ、低地地方の独立性を守るため、周辺諸侯や都市連合との外交を巧みに展開していきます。

帝国の王位争いに巻き込まれながら、足元の地域をどうまとめるか。ウィレム2世は、常にそうした舵取りを迫られていました。

鋼鉄の伯とフランドル伯の激突

画像:マルグリット2世と夫ダンピエール伯ギヨーム2世 public domain

ウィレム2世の外交と軍事を語るうえで、フランドル伯領との対立は避けて通れません。

1253年、フランドル女伯マルグリット2世の息子ギーとジャンは、ゼーラントの支配権を主張して軍を動かしました。

これに対し、ウィレム2世側も軍を動かし、ホラント軍はフランドル側の軍を撃退して、ギーとジャンを捕虜とする成果を挙げました。

この争い自体は、低地地方で繰り返されてきた領有権争いの一つにすぎませんでした。

しかし、フランドルがフランス王国と強く結びついていたため、この衝突は周辺諸国にも少なからず影響を与えるものとなります。

ウィレム2世は軍事行動だけに頼らず、その後の交渉にも力を注ぎました。

リンブルフやブラバントの諸侯と関係を調整しつつ、ドイツや北海沿岸の都市とも結びつきを深めていきます。

こうした動きによって、低地地方における立場を徐々に固めていったのです。

ウィレム2世の最期

画像:ミデルブルグの修道院(1746年の銅版画) public domain

1254年以降、ウィレム2世は北方の西フリース地方へと軍を向けます。

ホラントにとって、西フリースは長く統制の及ばない地域でした。

この地は湿地が広がり、夏場は足場が定まらず、大規模な軍の行動が難しい土地でした。そのため遠征は、地面が凍る冬に行われるのが常でした。

そして1256年1月28日、凍結した湿地を進軍していた最中のことでした。

ウィレムは戦闘の混乱のなかで馬ごと倒れ、フリース人との衝突によって28歳の若さで命を落としたのです。

年代記によれば、彼の遺体は身分が知られぬまま、現地に埋葬されたと伝えられています。

遺体が発見されたのは、それから26年後のことでした。

息子フロリス5世の命により掘り起こされ、ミデルブルグの修道院へ改葬されました。

その後、フロリス5世も父の後を継いで西フリースに軍を向けましたが、遠征は失敗に終わりました。

父の遺志を継ぐフロリス5世

画像:フロリス5世 public domain

ウィレム2世の死後、成長したフロリス5世は、支配の立て直しを進めていきました。

ケネメルランドでの反乱を抑え、西フリースへの遠征にも再び乗り出すなど、領域の安定と拡大を図っていきます。

あわせて内陸部やアムステル周辺にも影響を広げ、交易と都市の結びつきはさらに深まっていきました。

こうした都市整備と交易重視の姿勢は、のちにオランダやベルギーへとつながる低地地方の経済構造を形づくっていったと言えるでしょう。

ウィレム2世の時代は、ホラントが単なる一地方勢力から、存在感を持つ地域へと移り変わっていく過程にあたります。

都市と伯領、周辺勢力の関係を読み解くことは、ヨーロッパにおける国家形成を理解するための、重要な手がかりとなるのです。

参考文献 :
Pollock, M. A., Scotland, England and France After the Loss of Normandy, 1204–1296, Boydell Press, 2015.
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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