後漢とは

画像 : 2世紀頃の後漢と東アジア 俊武 CC BY-SA 3.0
西暦前221年、始皇帝によって史上初めて中国全土を統一した秦は、わずか15年で滅びた。
その後、楚漢戦争を経て、劉邦が前202年に漢王朝、いわゆる前漢を興す。前漢は約200年にわたり中国を統治し、「漢」という国号を人々の記憶に深く刻み込んだ。
しかし西暦9年、外戚の王莽(おうもう)が皇位を簒奪して「新」を建てる。理想を掲げた改革はかえって混乱を招き、各地で反乱が続発した。中国は再び、戦乱と分裂の時代へと引き戻されることになる。
この混乱を収束させたのが、漢王室の血を引く劉秀である。
彼は群雄を制して西暦25年に即位し、光武帝として漢を再興した。これが後漢である(25年-220年)。
後漢は、儒教的な礼を国家理念としながら、皇統の断絶を経験したがゆえに、血統と出産を過敏に管理した王朝でもあった。
宮女の「妊娠」の疑問

画像 : 河南省洛陽市 Diego Tirira from Quito, Ecuador CC BY-SA 2.0
後漢の都・洛陽の後宮には、皇后や貴人・美人といった妃嬪だけでなく、雑務や奉仕を担う宮女たちが置かれ、その総数は時期によって差はあるものの、数千人規模に及んだとみられている。
宮女たちは厳密な管理体制の中で暮らしていた。
起床や就寝の時間、配置先や職務内容など細かく定められ、勝手な移動や私的な交友は許されない。
宮中での生活は、個人の意思よりも、管理と秩序が優先される世界であった。
こうした環境に置かれた宮女にとって「妊娠」は想定される出来事ではない。原則として、宮女は皇帝と直接的に接する立場ではなく、妊娠が生じた時点で「なぜ?」という疑問が生まれる。
疑いが生じると宮女は日常の仕事から外され、掖庭(えきてい : 宮女が住む施設、時には獄)の管理下に置かれた。
そこに関わるのが「小黄門(しょうこうもん)」と呼ばれる宦官たちである。
彼らは皇帝直属の立場で、後宮の秩序を保つ役割を担っていた。
妊娠が事実であれば、場合によっては皇統に関わる重大事にもなり得る。
そして史料にも記される「考実(こうじつ)」という処理が行われた。
史料に残る「考実」という取り調べ

画像 : 考実を受ける宮女 イメージ 草の実堂作成
「考実」とは、後漢の宮廷において、疑いを持たれた人物の行動や身体の状態を徹底的に調べ、事実か否かを確定させるための公式な取り調べである。
考実が始まると、まず宮女の生活記録が洗い直された。
掖庭に残された配置表や出入りの記録、体調不良による欠勤の日付が並べられ、妊娠と結びつき得る時期が割り出される。誰と同じ空間にいたのか、どの監督下に置かれていたのかなどが確認された。
次に問われるのが、月事である。
月事がいつ止まったのか、以前と比べて変化はなかったか。これは本人の感覚としてではなく管理情報として扱われ、曖昧な答えは許されなかった。
その次は、身体そのものが確認の対象になる。
史料では詳細な描写を避けているが、妊娠の有無を確定する以上、下腹部の状態など、身体そのものが確認の対象になったと考えられる。
後漢以前から、妊娠の判断は月経の停止、腹部の張り、脈といった身体的所見によって行われており、月経の有無だけで確定できない場合、腹部の確認は避けて通れなかったからである。
また、考実は疑いを保留することはなく、事実関係を洗い出し「白黒つける」ことを目的とした処理であった。
この考実を主導したのが、先に述べた「小黄門」と呼ばれる宦官たちである。
宦官とはいえ彼らは男性である。
宮女にとって、自分の身体の状態を確認されること自体が、大きな屈辱であっただろう。
そして妊娠が事実であれば、その子と母の扱いが問題となり、虚偽や不正と判断されれば「暴室」送りとなった。
暴室とは

画像 : 暴室イメージ 草の実堂作成
暴室とは、後漢において、罪を疑われた后妃や宮女が収容された隔離施設である。
取り調べの結果を受けた後、処分に至るまでの段階で用いられることが多く、単なる隔離の場ではなく「処遇を待つ場所」という性格を持っていた。
後世で知られる冷宮が「生きながらえさせるための隔離」であったとすれば、暴室は「死を待つための隔離」であったと言えよう。
後漢書に見える「考実」と「暴室」の具体例としては、第3代皇帝・章帝の治世に、皇太子の地位をめぐる後宮の緊張の中で宋貴人が誣告され、その過程で宋氏に属する貴人姉妹が取り調べの末に自殺へと追い込まれた事例がある。
遂出贵人姊妹置丙舍,使小黄门蔡伦考实之,皆承讽旨傅致其事,乃载送暴室。二贵人同时饮药自杀
意訳 :
そこで貴人の姉妹を丙舎に移し、小黄門の蔡倫に事実を調べさせた(考実)。皆が上意を受けてその内容を取りまとめ、その結果、暴室へと送致された。二人の貴人は同時に薬を飲んで自殺した。范曄『後漢書』巻10 皇后紀上より
考実の結果がどうであれ、暴室に送られた時点で元の生活に戻れる見込みはほとんどなく、史料が示すように、自害した方がましだと感じさせるような場所だったのだ。
このように後漢の宮廷においては、妊娠は祝福される前に管理され、疑われ、時には排除される対象となった。
その行き着く先にあったのが、暴室という終着点である。
史料は多くを語らない。だが、語られないからこそ、その沈黙の重さは際立つ。
後漢の宮中において妊娠を疑われることは、宮女たちにとって取り返しのつかない結末を招き得る出来事だったのである。
参考文献 :
范曄『後漢書』(章帝八王伝・后妃紀・宦者列伝)
司馬光『資治通鑑』卷45(漢紀三十七)卷46(漢紀三十八)卷47(漢紀三十九)他
文/草の実堂編集部























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