
画像 : 法螺を吹く秀吉。月岡芳年「月百姿 志津ヶ嶽月」 public domain
太閤・豊臣秀吉は、天下人の地位を手に入れた数少ない人物ではあるが、家臣や配下の大名からは嫌われる人物であったとも伝わる。
生まれ持っての計算高さと人心掌握術を駆使して成り上がり、目的達成のためならどれだけ残虐な作戦でも実行することを厭わず、天下統一後はさらに冷酷で傲慢な性格が増長し、一説には身内からでさえ恐れ嫌われる人物であったという。
しかしそんな秀吉にも、生涯の親友と呼べる人物がいた。
その人物こそが加賀百万石の礎を築いた大名・前田利家である。
2人は青年時代の頃から面識を持ち、秀吉が天下人となり利家が加賀の大名になった後も、家族ぐるみの付き合いを続けるほどの無二の友情を築いていた。
仲間の裏切りが常だった戦国時代、どうして秀吉と利家は生涯の親友といえる程までに絆を深めることになり、そしてその関係はどのような結末を迎えたのか。
今回は豊臣秀吉と前田利家という男2人の友情の一部始終に、改めて触れていきたい。
秀吉と利家の生い立ち

画像 : 前田利家 public domain
秀吉と利家の友人関係は、お互いが織田信長に仕えている頃から始まった。
利家が生まれた時期については1536年説、1537年説、1539年説があり、秀吉は1537年生まれなので、2人は同年代である。
尾張国荒子城主であった前田利昌の四男として生まれた利家は、1551年から小姓として織田信長に仕え、寵愛を受けた。
その後の青年時代には信長直属の精鋭部隊「赤母衣衆」の筆頭として活躍し、槍の名手であったことから「槍の又左」と呼ばれ、派手な格好で暴れまわるかぶき者としても名を馳せた。
一方の秀吉は、その出自については謎が多いが尾張国愛知郡の中村郷中中村で、通説では足軽もしくは雑兵であった父と、刀鍛冶の娘であった母(後の大政所)の間に生まれたとされている。
幼くして実父を亡くし、母が再婚した継父との折り合いが悪かったために実家を飛び出し、15歳頃には今川家の陪臣に仕えていたという。
しかしその後まもなく退転し、17歳になる年の1554年頃から、織田信長に小者として仕えるようになったと伝わる。
長屋で育んだ無二の友情

画像:清洲城と桜 wiki c Bariston
秀吉と利家は清州城下時代に、貧相な足軽長屋の隣同士に住んでいたといわれる。
1558年に利家は赤母衣衆の筆頭に取り立てられ、順調に出世街道を歩んでおり、従姉妹のまつと結婚して長女に恵まれたが、翌年に信長に解雇されてしまった。
それは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥(じゅうあみ)に、利家がまつから授かった大事な笄(こうがい)を盗まれたことがきっかけで不和が生じ、ついには利家が拾阿弥を、信長の面前で斬り殺してしまったことが原因とされる。
信長を激怒させた利家は、柴田勝家や森可成の取り成しで成敗こそは免れたものの出仕停止処分となり、家族とともに長屋に移って浪人同然の貧しい暮らしを送らざるを得なくなった。
そんな憂き目を見た利家一家が移住した長屋の隣に住んでいたのが、信長の下で足軽として頭角を現し始めていた秀吉だった。
生まれの身分差を越えて知り合った秀吉と利家は意気投合し、貧しい暮らしの中で支え合い、時には酒を酌み交わして夢と野望を語り合いながら、友情を築いていったという。

画像 : 北政所・ねね『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)public domain
秀吉は長屋時代に正室であるねね(後の北政所)と結婚しているが、秀吉と寧々の婚姻の仲人を務めたのは利家とまつ夫妻だった。
妻同士であったねねとまつも姉妹のように仲が良く、1574年には子供に恵まれなかった秀吉夫妻のもとに、まつが生んだ5人目の子である豪姫が数え2歳で養女として出されている。
秀吉と寧々は前田家から預かった豪姫を、我が子のように可愛がり養育したという。豪姫は後に、豊臣政権下五大老の1人であった宇喜多秀家に嫁いでいる。
秀吉と利家の家族ぐるみの付き合いは、利家が武功を挙げて帰参を許され2人が信長の下で同輩となり、互いに昇進して安土城下で向かい同士に立派な屋敷を構えた後にも、絶えることなく続いたという。
友情を一時別った信長の後継者問題

画像 : 柴田勝家 public domain
信長の下で切磋琢磨しながら友情を築いていた秀吉と利家だったが、一時的に2人は対立関係となった。
本能寺の変で信長が没した後、山崎の戦いで明智光秀を討ち取った秀吉は信長旧臣の中で大きな権力を持つようになり、信長の後継者を誰とするかを巡って利家が与力となっていた柴田勝家と敵対したのだ。
1583年5月、近江国伊香郡の賤ケ岳付近で秀吉は5万の兵を率いて木ノ本に布陣し、利家は勝家の与力として勝家や佐久間盛政らとともに、近江国柳ヶ瀬に布陣した。
翌6月に本格的に始まった賤ケ岳の戦いでは、当初は秀吉の隙を突いて奇襲を行った柴田軍が優位に見えた。
しかし、秀吉が自軍を率いて約52kmの道のりを5時間ほどで移動する作戦「美濃大返し」を敢行し、利家が早々に戦線を放棄したことも要因となり、一転して秀吉軍が優位に転じた。

画像 : 浅井長政夫人(お市の方) public domain
創作という説もあるが、『賤岳合戦記』には勝家が敗走して本拠であった北ノ庄城(福井城)に逃れる途中、利家の居城であった越前府中城に立ち寄り、利家のこれまでの労に感謝し、秀吉に降るよう言付けて、湯漬けを所望したという逸話が伝わっている。
その後に利家は秀吉軍に降伏する形で寝返り、北ノ庄城攻めの先鋒を担った。
北ノ庄城に帰った勝家は、逃亡を拒んで共に自決すると誓ったお市の方や、一族、直臣ら80名余りと酒宴を催した後、壮絶な自決を遂げた。
利家が本格的な交戦が始まる前に早々に戦線を放棄したのは、もともと親交があった秀吉の勧誘に早い段階で応じていたからではないかとも考えられている。
旧友・秀吉を支え続けた利家

画像:五大老の花押。上段左より上杉景勝・毛利輝元、下段左より宇喜多秀家・前田利家・徳川家康。下段は上下逆。 wiki c AlexHe34
賤ケ岳の戦いの後、利家は秀吉から加賀の本領を安堵された。
さらには柴田軍の佐久間盛政の旧領であった加賀国の2郡を加増されて、能登の小丸山城から金沢城へと本拠を移した。
利家は秀吉に旧友としてだけでなく家臣としても信頼を置かれ、秀吉の関白就任以降は秀吉と諸大名との窓口的役割を担うようになり、「北陸道の惣職」としての地位を確固たるものとした。
1590年には、利家は参議に任じられた。後陽成天皇の聚楽第行幸など秀吉主催の一大行事にも陪席し、奥州の伊達政宗など東北の大名に上洛を求める交渉役も担い、小田原征伐後の奥羽地方の鎮圧にも努めた。
豊臣政権の基盤を揺るがした秀次切腹事件の後には、秀吉は政治危機を克服するために利家を筆頭格として「五大老」を任命し、利家らは政権の安定を図るために事件の後処理に尽力している。

画像:『醍醐の花』(尾形月耕『日本花図絵』) public domain
1598年4月20日、秀吉は自らが死の床に就く4ヶ月前に、京都の醍醐寺三宝院の裏山の麓で「醍醐の花見」を催した。
利家は妻のまつ、そして秀吉の側室となった三女の摩阿姫とともに、約1300人の招待客の中で、秀吉とその息子の秀頼以外の唯一の男性客として、秀吉の人生最後の大行事に陪席した。
長屋の貧乏暮らしから始まった秀吉と利家の友情は、この世の栄華を極めたような桜景色の中で完成を迎えたのだ。
醍醐の花見が終わって間もなく秀吉は病に臥せり、秀頼の後見を任じた利家に、秀頼の将来を繰り返し頼みながら死没した。
しかし秀頼の傳役を引き受けた利家も、体調に陰りを見せるようになっていた。
秀吉の死の翌年の元旦、利家は病身に鞭打って、秀頼の傳役として豊臣家の年賀の礼に参加しており、10日には秀吉の遺言に従って秀頼とともに大坂城に入っている。
秀吉の死後、家康が天下統一のために動き出していたが、利家の病状が良くなることはなかった。
家康が利家の見舞いに来た時は快く受け入れたが、実はその時、布団の下に抜き身の刀を忍ばせていたという逸話が残されている。
そして醍醐の花見から約1年後の1599年4月27日、利家はまつを残して秀吉の後を追うように、この世を去ったのである。
不遇や苦労を経験して初めて真の友情を知る

画像:醍醐寺の清瀧宮本殿と桜 wiki c Reggaeman
利家の名言とされるこんな言葉がある。
人間は不遇になったとき、はじめて友情の何たるかを知る。
新進気鋭の武将としてもてはやされ、華々しい生活を送っていたはずが一転して浪人となり、地位も金も失った挙句多くの友人や部下が離れていったが、そのような苦境に陥った利家を、唯一助けてくれたとも言える存在が秀吉だった。
調子の良い時ではなく、不遇である時に無条件で助けてくれる人間こそが真の友であると、利家は実体験でもって気付いた。
さらにはお互いに戦国時代を生き抜いた武将であるがゆえに、2人を繋いでいたのは友情という言葉で片付けられるものではなかっただろう。
醍醐の花見において秀吉と利家は、どんな心持で満開の桜を眺めたのだろうか。
それは心から信頼できる旧友を持つ人間にしか、見ることができない景色だったのかもしれない。
参考 :
井沢 元彦 (著) 『英傑の日本史 激闘織田軍団編』
楠戸 義昭 (著)『戦国武将名言録』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
























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