約2億年もの間、地球の主として君臨しながらも約6,550万年前に突如として絶滅してしまった恐竜たち。
時期を同じくして、我々の祖先である小型哺乳類や鳥類につながる種を除いては、全ての生物種の70%が絶滅したと考えられている。
しかし、わずか30秒の時間の違いで、恐竜は絶滅を免れていたとしたらどうだろう?
哺乳類は今も小型のままで人類は誕生していなかったかもしれない。そして、この記事を読んでいるあなたも存在しなかったかもしれない。
隕石と小惑星
「隕石」と「小惑星」の違いをご存知だろうか?
大きさ?軌道?成分?
どれも答えは「NO」だ。太陽系小天体のうち、核から放出された物質が、尾のように拡散するものは「彗星」と呼ばれ、そうならないものを「小惑星」と呼ぶ。
岩石を主成分としており、その多くは火星と木星の間の軌道を公転しているが、地球付近を通過する可能性のあるものも存在する。この小惑星帯 (asteroid belt) と呼ばれる領域は、太陽からの距離が約2 – 4天文単位の範囲に集まっており、ほとんどの小惑星はここに集まっている。天文単位とは、地球と太陽との平均距離に由来している単位のことだ。
1天文単位は「149 597 870 700 m」であり、約1億5,000万km。
4天文単位で約6億kmと、途方もない数字なので「とても遠いことだけは分かる」といったところか。だが、この距離は宇宙規模では「0m」に近いほどの距離でしかない。軌道を外れた小惑星が地球付近を通過する可能性は低くはないのだ。
しかし、心配することはない。そうした可能性のある小惑星は、すべてNASA(アメリカ航空宇宙局)がリストにしてモニターしており、軌道予測から差し迫った危機がないことが分かっている。
肝心の隕石と小惑星の違いだが、隕石の定義を見てみると
「惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたもののこと]
とある。
つまり、小惑星も落下してくれば隕石になるわけだ。
隕石衝突
小惑星などの宇宙にある天体が地球など他の天体に衝突することを「隕石衝突」、もしくは「隕石落下」という。
隕石衝突に大気の有無は関係ないが、仮に地球のように大気のある惑星に小惑星が衝突する場合、一般的に衝突する天体が大きく、落下速度が遅いほど蒸発に時間がかかる。大気圏に突入した小天体が空気との摩擦で熱せられ流れ星になることは有名だ。この場合、ほとんどの小天体は分解・蒸発してしまい地上まで届かない。
しかし、大きくなれば話は別だ。大規模な隕石は摩擦で消えることなく、地上に届いて高熱や衝撃波を発生させる。その具体的なエネルギーはニュートン力学で求めることが出来る。
等速直線運動をする物体の運動エネルギーは、エネルギーE、質量 m 、速さ v として公式に当てはめれば、質量 m と速さ v の2乗に比例する。つまり、速さが2倍になればエネルギーは4倍になる。
同様に質量は隕石が球体であれば、ρを隕石の密度、Rを半径とすれば、質量mは直径2Rの3乗に比例する。つまり、直径が2倍になれば、質量及びエネルギーは8倍になる。
小型の隕石、といっても直径10kmほどだが、それが海面に落下した場合に考えられるのは、津波や、比較的浅い水域や陸地である場合は、舞い上がった粉塵が太陽光を遮断することによる気温の低下(隕石の冬)を引き起こす。結果的に人類を含む生物に甚大な被害を与える。
さらに巨大な天体が衝突してきた場合は、衝突された側の地球型惑星の表面全体が融解するのではないかとも言われている。
直径400kmの隕石が地球に衝突した場合のシミュレーションがこちらだ。
幸いにもこのレベルの隕石衝突は起きていないが、小型隕石の落下は古代から何度も起きている。
その中でもっとも有名なのが、約6,550万年前にメキシコのユカタン半島に衝突した直径10km?15kmほどの隕石だ。
そう。恐竜絶滅の原因と言われる隕石衝突である。
恐竜絶滅の原因
恐竜が絶滅した原因は、約6,550万年前、小惑星が地球に衝突、発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながったという説(隕石説)が最も有力であり、ユカタン半島で発見されたチクシュルーブ・クレーターがその隕石落下跡と考えられている。
衝突速度は約20km/s、衝突時のエネルギーは広島型原子爆弾の約10億倍、衝突地点付近で発生した地震の規模はマグニチュード11以上、生じた津波は高さ約300メートルと推定されており、クレーターの直径は180kmにもなるという。
動画を見たのなら、直径400kmの隕石が地球に衝突した場合の凄さは分かったと思うが、直径10数kmの隕石でもこの被害が出る。直径400kmに比べれば、「せいぜい」大きな地震と桁違いの津波くらいの話だが、これだけでは恐竜が絶滅するほどの決定打にはならない。
では、結論の前に興味深いランキングに話を変えよう。
小惑星激突世紀末の死因ランキング
イギリスの研究チームが「真剣に」小惑星が地球に激突したら、どのような理由でどれほどの人が死ぬかを計算した。過去にも、同じような取り組みにより、激突時の衝撃波によって多くの人が死ぬと算出。そして、今回はそれ以外の理由も含めて計算をしている。
どれほど死傷者が出るかは、小惑星の大きさ、どういう角度でぶつかるか、どこにぶつかるかなど、いろいろな要因がまざりあってのこと。そこで研究チームは、70%の確率で水上に激突(地球の70%は水なので)するというベースで、小惑星の大きさは直径18mから400m、密度は1立方メートルあたり3,100kgという設定で、5万件ものランダムな衝撃パターンを計算。惑星が大きければ大きいほど、熱による死傷者の数が増えるものの、平均をとると以下のような感じになった。
5位 地震:死傷者の約1%未満
4位 衝撃で臓器破裂:死傷者の約5%
3位 津波:死傷者の約20%
2位 熱に焼かれる:死傷者の約30%
そして、1位は
「激突によって起こる強風(衝撃波)に飛ばされ激突:死傷者の約45%」となった。
恐竜と人間、隕石の大きさなど違いはあるが、絶滅への参考にはなる。
そして、この結果には、恐竜絶滅の「直接的な」引き金となった、ある現象が抜けていた。
「30秒」の差が恐竜の生死を決めた
※チクシュルーブ・クレーター
イギリスBBCの「The Day The Dinosaurs Died(恐竜が死んだ日)」という番組では、6,550万年前にユカタン半島から約40キロ離れた場所で起きた隕石の衝突を調査。チクシュルーブ・クレーターと呼ばれるその隕石跡は、海と陸に跨る巨大なものだ。その結果、落下地点は硫黄化合物が豊富な地域であり、これが一層粉塵の雲を分厚くさせたことが判明した。
仮に30秒だけ衝突のタイミングがずれていれば、隕石は大西洋か太平洋に落下し、被害はずっと少ないものになったと推測される。専門家に言わせれば、「極めて残念な場所に落ちた」わけである。
隕石の衝突時、最大1,000億トンの硫黄が大気中に巻き上げられた。それは10年間地球を寒冷化させ、ほとんどの生物を絶滅させるに十分なものであったのだ。
隕石の周辺に生息していた恐竜が犠牲になることは避けられないが、もしタイミングが30秒違っていたら、地球規模での絶滅は避けられたかもしれない。
最後に
恐竜絶滅の原因については諸説あるが、現在ではこの隕石衝突説が有力である。
しかし、隕石の大きさ、落下角度、落下速度、落下位置、落下時刻、そのいずれかでも違っていたら、我々人類はこうして画面を見ていることは出来なかったかもしれない。
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【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。