平安時代

子供だからと侮るな!侮辱に全力抗議した鎌倉武士・佐々木信実のエピソード

武士の定義には色々あるものの、生命と名誉のどちらかを選ばなければならない状況で生命を選ぶ者は、もはや武士として生きていくことはできません。

たとえ自分の生命を失っても、名誉を受け継ぐことで遺された一族に存続の可能性を託すのが武士の生き方というもの。

かかる火の粉は払わにゃならぬ(イメージ)

そこで武士たちは、どこの家でも子供の頃から名誉を守ることについてしっかりと教育され、もし侮辱を受けようものなら全力で抗議し、時に実力行使も辞しませんでした。

今回はそんな鎌倉武士の一人・佐々木信実(ささき のぶざね)少年のエピソードを紹介したいと思います。

大盛況の双六大会で……

時は平安末期の建久元年(1190年)7月20日、源頼朝(みなもとの よりとも)公の御所で双六(すごろく)大会が開催されていました。

「双六なんて、お正月に家族で人生ゲームやモノポリーをやるくらいで、大の大人がそんなに盛り上がるものなの?」

現代人の感覚ではそう思うかも知れませんが、当時の双六とは現代で言うバックギャモンに近く、熱狂のあまり賭博に使われて人生を狂わせる者が続出。

大盛況の双六大会(イメージ)

あまりの事態に、一時は朝廷が名指しで禁止令を出すくらいに流行した遊びだったでした。

かつて白河法皇が「賀茂川の水とサイコロの目と僧兵だけは意のままにならない」と嘆いたサイコロの目とは、まさにこの双六のことで、やんごとなき方から庶民に至るまで流行っていたことが分かります。

まぁ、それはそうとして頼朝公の主催する双六大会も、押すな押すなの大盛況。当の頼朝公は、ちょうど信実少年(15歳)と対局中でした。

「おっ、やってるやってる」

そこへやって来たのは、頼朝公の寵臣(お気に入りの家臣)である工藤祐経(くどう すけつね)。対戦相手が見つからなかったので、頼朝公に対局してもらおうと思ったようです。

「しかし、立錐(りっすい。キリを立てるほど)の余地もないとはまさにこのこと……ちょっとすまんな」

工藤祐経。歌川豊国筆

祐経は信実少年をひょいと抱え上げて座る場所を少しずらし、わずかに空いたスペースへ身体をねじ込むように座りました。よほど混雑していたのでしょう。

「さて、(頼朝公と信実少年の)どっちが勝っているのかな……ん?」

次の瞬間、信実少年は血相を変えてすっくと立ち上がったかと思ったら、いきなり庭へと駆け出します。

「うわっ、何だ太郎(信実少年の通称)!」

「痛てっ……こら太郎っ、踏んづけるなっ!」

御家人たちが𠮟りつけるのも構わず、信実少年は庭先で手ごろな礫(つぶて。石ころ)を拾い上げるとそれを握りしめ、まっすぐに祐経のところへ戻って来ました。

「……喰らえ!」

「ぎゃあ……っ!」

信実少年は渾身の力で礫を振り下ろして祐経の額をカチ割り、現場は流血の惨事に見舞われます。

信実の一撃(イメージ)

「すわっ、何事か!」

信実少年は礫を放り出して御所から逃走、会場はにわかに騒然となりました。

たとえ年若くとも……

せっかくの双六大会を台無しにされて、頼朝公はカンカンです。

「左兵衛(さひょうゑ)はどこだっ!」

頼朝公から呼び出された信実少年の父・佐々木盛綱(もりつな。左兵衛)は、平身低頭して息子の不始末を詫びました。

「……此度は愚息が誠に申し訳ございませぬ。本日限りあれを勘当し、針の先ほども所領を相続いたしませぬゆえ、どうか御容赦を……」

【原文】針を立つるの地も譲り与ふべからざるのよし

信実の行方を捜させる盛綱(イメージ)。水野年方筆

当の信実少年はと言うと、既に出家の上で逐電(ちくでん。逃走)しており、行方不明となっています。

「とのことじゃが……どうじゃ左衛門(さゑもん。祐経)、許してやるか?」

額の傷痕も痛々しい祐経でしたが、怒りもせずに盛綱を許しました。

「は、無論にございます。佐々木殿、どうか面をお上げ下され」

「工藤殿……!」

「そもそも此度の一件、それがしにも非はあり申した。太郎君(ぎみ)のお怒りももっともで、まして佐々木殿を怨むことなどございませぬ」

【原文】事の濫觴を思ふに、信実、道理なり。随ひて小冠が所為、さらに確執無し。いはんや盛綱において異心を存ぜざるをや

※濫觴(らんしょう)とは事の始まり、小冠(しょうかん)とは元服して間もない者つまりここでは信実少年を指します。

元服した以上、いかに幼くとも信実少年はれっきとした武士であり、その意に反して(少なくとも同意を得ずに)位置を動かすという行為は、相手を軽んじていると言わざるを得ません。

ここはちょっと面倒ではあっても、きちんと信実少年に「次に佐殿と対局したいので、座るスペースを開けて欲しい」と依頼し、自分の意思で譲って貰うべきでした。

「いやぁ、小さい頃から親しかった甘えもありましたが、申し訳ないことを致した。どうか太郎君には『それがしは怒っておらず、むしろ申し訳なかった』とお伝え下され」

「……忝(かたじけな)い」

大ごとにならず、ホッと一安心の頼朝公(イメージ)

「そういうことであれば、此度の一件は落着と致そう。左兵衛よ、太郎が見つかり次第その旨を伝えよ」

「ははあ……」

たとえ年若くとも、武士はきちんと武士として接するべき……この一件は御家人たちにとって、大いに教訓となったことでしょう。

エピローグ

その後、出家し入道西仁(さいじん)と改名した信実少年は承元3年(1209年)に第3代将軍・源実朝(さねとも)公に硯を献上したり、承久の乱(承久3・1221年)に従軍したりなど、鎌倉幕府の御家人として活躍します。

晩年の入道西仁(イメージ)

承久の乱の戦功によって備前国(現:岡山県南東部)の守護となり、寛元元年(1243年)7月26日に68歳で亡くなりました。

ひょんなことから大事件を引き起こした信実少年でしたが、その精神は鎌倉武士の鑑として後世に語り継がれています。

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月

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