2009年の大河ドラマ『天地人』の主人公として、人気漫画『花の慶次』や『義風堂々 直江兼続 -前田慶次月語り-』での登場人物として、今では歴史ファンだけでなく、多くの人々に知られるようになった直江兼続。
しかし、戦国の世に生きた武将としての一面もさることながら、上杉家の家老として内政面を支えた政治家としての一面も有名である。
今回は、戦場以外における直江兼続の才能を調べてみた。
景勝の側近へ
※直江兼続
兼続の名が歴史の表舞台に出てくるのは、上杉謙信の死後、跡目争いにより起こった「御館の乱(おたてのらん)」の後のことだった。上杉景勝と上杉景虎が争った後継者争いにおいて勝利した景勝の側近・直江信綱が殺害されたことにより、景勝は兼続を直江家に婿入りさせ、お家を存続させるとともに自らの腹心とした。
これ以前の資料は少なく、どのような経緯で兼続が重用されたのかは不明だが、直江家を相続した時点で兼続は21歳、主君である景勝が25歳だったという点を考えるに、若い頃より面識があった、もしくは近しい間柄だったということは十分に考えられる。
そして、これ以後の上杉家は、御館の乱で景勝側に立ち頭角を現した狩野秀治と直江兼続との2人が執政をなすこととなった。
天下人に認められた才能
※律令制における山城国
天正14年(1586年)には、景勝とともに上洛して豊臣秀吉に面会し、臣下となることを誓い、翌々年再び上洛した際には、兼続は朝廷から「山城守(やましろのかみ)」に任じられる。山城守とは現代の知事のようなもので、山城とは現在の京都府に当たる。京の都を含む重要な役職であり、これは若くして秀吉や朝廷にも認められたということだ。
この頃には狩野秀治が病で死去しており、兼続がひとりで執政を行っていたため、秀吉の目にも止まりやすかったのだろう。秀吉も「天下の政治を安心して預けられるのは、兼続など数人にすぎない」と評している。
また、度重なる上洛は、兼続が文人として活躍する場でもあり、この頃には中国の史書や古典などを積極的に集めていた。『花の慶次』では、この時期に前田慶次と京で出会っており、慶次は勝手に兼続の家に上がっては書物を読み漁る描写がある。
新天地での内政
※米沢盆地南部・米沢市街周辺
さて、ここまでは景勝に認められ、秀吉にも認められた武将という立ち位置の兼続を見てきたが、これまでのところ兼続自身が何かを成し遂げたという明確な政策はない。ただ、若くして執政を行う身となった姿があるだけだ。
しかし、彼の才能が本当に世に知られるのは関ヶ原の戦いの後であった。
徳川家康の不興を買った上杉氏は、米沢城30万石へ減移封となった。そこで、兼続は新天地での礎を築くことになる。
まず、街作りの要となる治水事業のため、最上川の源流である松川の氾濫を防ぐ必要があった。兼続は自ら赤崩山に登り、山頂から川の反乱の様子を観察し、総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防(直江石堤)を築いた。同時に、城下へ必要な用水を供給するため新たな堰を開削している。さらに河原の近くには下級武士を配置して、さらなる氾濫に備えさせたのである。
未来を見据えて
※ウコギ
また、上杉氏は転封後も越後時代からの家臣を解雇せずに召抱えていたため、藩の財政は非常に厳しかった。そのため兼続は若い下級武士たちには自給自足を促すべく、『四季農戒書』という自作自農を教えた本を造り、貧しいながらも何とか生活して行けるよう教えを説いた。
武士への教えはそれだけではない。
わざわざ禅林寺(現法泉寺)という寺を開き、その中に兼続が集めた図書を備えて、禅林文庫なる米沢藩士の学問所を設立して人材育成にも力を注いだ。
一方で、武家屋敷にはウコギの生垣を植えさせ、敵が攻め入ったときでも鋭い棘により侵入を困難にさせた。ウコギはたらの芽やコシアブラ、更にはウドなども含まれるウコギ科の草木の若芽で、古くから春の山菜として食用にされてきた。そのため、「米沢では戦国時代から食用となっていた」「上杉鷹山公の時代になってから、貧しい民の腹を満たすために食用となった」など諸説あるが、実際には兼続が非常食としても使えるという理由もあり植えさせたようである。
街中の道についても、敵が侵攻してきた場合に真っ直ぐに見通せない構造に作り変えたという。江戸の世にあっても、兼続は領地を守るべく気を緩めることはなかったのだ。
No.2の武将
※直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」
正直、兼続の軍政については特別に秀でているとはいえないようだ。
景勝とともに幾多の戦場を経験しているが、最上家との戦いでは3万の軍勢を率いるも長谷堂城を落城させることはできていない。その際の撤退は見事だったようで、追撃隊との戦闘を繰り広げながら米沢に帰還したことは後世においても賞賛されている。しかし、撤退を賞賛されるというのも皮肉な話である。
「前田慶次について調べてみた【戦国一のかぶき者】」でも、「(兼続と)意気投合したことは事実だったにせよ、実際に慶次が魅かれたのは兼続の主である上杉景勝であった。」と記述したように、前田慶次も兼続の武人としての才に惚れたわけではない。
それよりも、兼続は治水や築城などの分野での功績が目立つ。やはり、No.2の地位にあることでその才能を発揮できたのが直江兼続という男であった。
最後に
若くして家老となった兼続だったが、家臣からは『旦那』と呼ばれ親しまれるなど、早い段階から上杉家の実権を握っていたようである。身分の上下にはあまりこだわらず、藩のため、民のためにその才能を活かした人生であった。
それは、亡き謙信公の「義」を受け継いでいたからだろう。
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