2015年、約5年半もの期間を費やした「平成の大改修」が終わり、築城当時の白鷺(しらさぎ)の如き姿を見せた姫路城。
日本に現存する12天守のひとつであり、さらにそのなかでも5つしかない国宝の天守閣を有する。南北朝時代の砦に始まり、戦国時代、江戸時代には西国の要衝となった。さらに明治、昭和と廃城や被災を免れて現在に至る。
今回は、姫路城について調べてみた。
平成の大改修
平成の大改修により、姫路城は「本来」の姿を取り戻した。
しかし、あまりの白さに感嘆しつつも戸惑いを隠せない。巷では姫路城の別名「白鷺(しらさぎ)城」をもじって「白すぎ城」などと揶揄された。
本来は黒いはずの屋根も白くなり、「やりすぎでは?」という声まで上がったらしい。
が、これこそ大改修の狙いである。
瓦の継ぎ目に「屋根目地漆喰(やねめじしっくい)」という漆喰を塗りこんだためだ。
※屋根の瓦の葺き直しと漆喰の塗り直し途中
上の画像は、2012年に屋根の瓦を葺きなおし、漆喰を塗り直しているところだ。姫路城の屋根は強度を上げるために平瓦と丸瓦を組み合わせており、その継ぎ目に白い漆喰を使用している。まさに上の画像の白い部分だが、これが盛り上がっているため、下から見ると屋根まで「真っ白」に見えるのだ。
もっとも、この白さが保てるのは3年ほどで、カビの影響などにより徐々に黒ずんでゆくという。
姫路城 の変遷
※姫路城鳥瞰図(明治初期)
大規模な城のため、その歴史も複雑である。
1346年、南北朝時代の争乱により、この地に「姫山城」として築城されたのが始まりといわれる。その後は黒田家の居城になり、大河ドラマ「黒田官兵衛」の主人公である黒田官兵衛が生まれた城というエピソードも有名である。やがて戦国期に小規模ながら中世城郭の形となり、安土桃山時代には羽柴秀吉がこの地を治める毛利氏を破って居城とした。
この秀吉の時代に大改修が行われ、近世城郭にするとともに3層の天守を配し、名称も「姫路城」となった。また、城の南部には城下町を広げることで播磨国の中心地として整備したのである。
秀吉亡き後、関ヶ原の合戦で戦功を挙げた池田輝政が加増移封されて入城すると、西国の外様大名に睨みを利かせるための拠点として、8年を費す大改修が行われた。さらに1618年には西の丸の整備が完了し、ほぼ現在のような城郭が完成する。
江戸時代を通し、屈指の名城としてその役目を果たしたが、明治政府による廃城令による取り壊しの危機などを乗り越えて、天守閣群などは現在までその姿を残すこととなったのである。
天守構造
※姫路城
前項では「天守閣群」と書いたが、姫路城の天守は独立した大天守を持たない。
外観5重、内部6階、高さ約46mの大天守を中心に、3重3階の「東小天守」、3重4階の「乾小天守」、3重3階の「西小天守」が建てられており、それらは「イ・ロ・ハ・ニ」という4つの渡り櫓で連結している。
このことから姫路城の天守は「連立式天守」と呼ばれるのだ。
渡り櫓はどれも2重2階となっており、「城郭建築の最高峰」とも讃えられる天守群を構成するのにバランス的にも見栄えがよい造りとなっている。
※大天守と小天守。中央に2層の渡り櫓が見える。
大天守の内部を見ると、建物を縦に貫く柱が2本ある。
長さは約25m、太さが約1mの「心柱」だ。心柱は宗教的な意味だけでなく、耐震性の向上にもつながるために五重塔の中心などにも昔から使われた。その2本のうち「東大柱」は築城当時のものが使われており、約400年もの間代天守を支え続けたのである。
戦時への構え
※内曲輪の江戸時代の配置図。通路が迷路のように張り巡らされているのがわかる。
姫路城はその美しさもさることながら、城としての機能も一級なのが特徴だ。
江戸時代になり、徳川家康はそれまでの「豊臣色」を払拭すべく、各地の城を大改修させた。豊臣時代には天守の外壁は黒を基調としていたが、それを耐火性に優れた白漆喰に塗り直したといわれている。さらに大阪城に至っては城ごと建て替えさせ、豊臣時代の遺構は現在もその下に埋もれたままだ。そして、城は戦いのための建築物から、各藩の象徴へとその意味を変えた。
しかし、西国への警戒のために存在した姫路城には、本来の機能をそのまま残してある。つまり、いつ攻め込まれても戦えるように、城下町全体を外曲輪で囲うという「総構え」の城郭都市とした。
これは小田原城と並び、日本でも最大級の規模だ。
また、堀を抜けて内曲輪に侵入されても一気に天守まではたどり着けない構造になっている。これは一部に豊臣時代の構造を生かしたいるとも考えられ、極めて珍しい。通路は迷路のように広がり、道幅も変化する。各所に配置した兵は、側面から攻撃することが可能なようになっていて、敵の進行を阻止できる構造になっている。
奇跡の城
※空襲から守るために黒い網(偽装網)を掛けられた姫路城。
姫路城は奇跡の城でもある。
明治の廃城令でも天守が残されたことは書いたが、それ以前の幕末期にも危機を迎えていた。鳥羽・伏見の戦いにおいて、当時の城主である酒井忠惇は幕府の老中であったため、姫路城も一時は新政府軍に包囲された。新政府軍により大砲による威嚇射撃も行われたが、最終的には城を明け渡すことで姫路城での戦闘は回避されている。
さらに第二次世界大戦においては、「姫路大空襲」に見舞われた。約1万発もの焼夷弾により姫路の町は壊滅したが、城内に着弾した焼夷弾は大きな損害を与えないものか、不発弾ばかりであり、大天守に直撃した1発も不発だったために焼失を免れたのである。
翌朝、焼け野原となった姫路の町において、悠然と立つ姫路城を見た市民は涙を流したという。
最後に
現存する12天守、国宝であり、日本初の世界遺産認定など、この城は多くの価値を秘めている。そして、その歴史、規模、風格は日本でも類を見ない城郭だ。その目で見る機会があれば、そうした賞賛が決して大げさではないとわかるだろう。
大天守の飾り屋根など、建築物としても一級の価値があるからだ。
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