城,神社寺巡り

小田原城に観光に行ってみた【歴史、オススメの見どころ】

東京から新幹線で40分、車でも一時間ほどのアクセスの良さで人気の小田原城に行ってきた。

小田原城の歴史

小田原城は、戦国時代の1495年にこの地を治めた北条早雲から、北条氏直が五代目当主であった1590年まで、約100年に渡り関東一円を支配した北条家の拠点であった。

最後は数十万とも言われる豊臣秀吉の小田原攻めにより開城するが、それでも関東でも有数の名城であったことは間違いない。

その小田原城だが、明治時代には政策により廃城となり、さらには関東大震災の被害を受けて江戸時代以前の面影は消えてしまった。現在の天守閣は1960年に復元されたコンクリート製のもので、その他の建築物も徐々に再現されてきたようだ。
そして、2016年5月に天守閣がリニューアルオープンしたのを切っ掛けに観光客も増えているそうだ。

小田原城のさらに詳しい歴史に関してはこちら → 小田原城の歴史について調べてみた

この日も日本人だけではなく、海外からの観光客も多く見られた。

小田原城に行ってみた【観光レポ】
※ALL写真撮影 gunny

小田原城へのルート

小田原駅から徒歩十分ほどでお堀に出る。

小田原城への道はいくつかあるが、現在では正規登城ルートというものが再現されており、整備された歩道をお堀沿いに歩いて向かうようになっている。

学び橋

歩道から見える水堀は江戸時代以前に比べ縮小されているらしいが、それでも十分に美しい。

中央の赤い橋は「学び橋」といい、かつて城址公園内にあった小学校へ通うために作られたものである。もちろん、江戸時代には存在していなかった。

現在は統廃合により跡地はイベント広場になっているが、位置的には左手に見える(やぐら)の奥のほうになる。こうした櫓は万が一の篭城などに備えて食料などを備蓄するための倉庫だったらしい。

馬出門

お堀を渡り最初に登城ルートに現われるのが2009年に復元された「馬出門(うまでもん)」である。

ふたつ門からなるL字型をしており、画像の左手から入り、右手の門へ進んだようだ。

こうした構造により、敵襲があっても一度に大軍が攻め込めないようになっていたのだろう。

銅門

馬出門を抜けて内堀を渡ると「銅門(あかがねもん)が見えてくる。

その名の通り、門の扉に銅が使用されており大変美しい。この門が二の丸への正門になっており、ここも入り口と門は直角に配置されている。

この銅門も1997年に復元されたものだ。

ちなみにこの門はドラマ「天皇の料理番」において皇居の門の設定で撮影に使われた。小田原市はフィルムコミッションに力を入れているようで、他の作品でも使われているようだ。

次のページへ

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

1

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 山内一豊 〜「内助の功」でも知られる遅咲きの強運な武将
  2. 尼子晴久の残念な最後 「戦の天才・毛利元就を何度も破るも、水浴び…
  3. 富士信仰について調べてみた【富士山は誰のもの?】
  4. 【群馬伊香保に突如できた謎の巨大宗教施設】佛光山 法水寺とは一体…
  5. 戦国武将たちの異名やあだ名を一挙に紹介 【虎、龍、鬼、神、仏、無…
  6. 【義理人情なし!】 すぐに裏切る『ギリワン』戦国武将4人衆とは
  7. 上杉景虎について調べてみた
  8. 武田信玄の病と死因 「ストレスによる胃潰瘍だった?」


カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

恐竜進化の証人 原竜脚類 「初期の恐竜の代表格」

恐竜進化の証人史上最大級の生物として中生代の地上を支配した竜脚類だが、当然ながら最初から…

平成元年(1989)の出来事「この年歴史はいろいろ変わった」【後編】

平成元年の出来事をまとめていくこの企画。今回は後半ということで平成元年の8月から12月までの出来…

抗うつ薬はくせになる?調べてみた

令和2年。新しい時代になったが今もうつ病などの精神疾患には偏見がつきまとう。そのうちの一つが…

将軍様も夜遊びしたい!『吾妻鏡』が伝える第4代鎌倉殿・藤原頼経のお忍びエピソード

♪月がとっても青いから 遠廻りして帰ろう……♪※菅原都々子「月がとっても青いから」月が綺…

米Googleでも実践!1分で頭すっきりワーク【マインドフルネス】

SNSやメールでひっきりなしにやり取りする現代。人間の脳は常時複数のタスクをこなしている状態で、…

アーカイブ

PAGE TOP