平安の世から現代に来た私には、現代の人々は著しく心の健康を損なっているように見える。
そんな人々に私は言いたい。「古典に知恵を求めよ」と。
今回は兼好法師(けんこうほうし)「徒然草」に心の健康法(けんこうほう)を求めてみた。
題して「兼好法師に学ぶ 心の健康法」である。
兼好法師 とは
「徒然草」の作者である兼好法師は、鎌倉時代後期から南北朝時代中期の頃の人物である。
従来の説では、「卜部氏の流れを汲む神祇官人であり、京都吉田社の祠官であった吉田家に生まれた」と言われて来たが、近年の研究では、この経歴は戦国時代の吉田家の当主であった吉田兼倶の捏造であったと指摘されている。
この辺りについては2015年に出版された、角川ソフィア文庫の新版「徒然草」の解説などを参照されたい。
同書の解説を執筆された小川剛生氏は「吉田の家号は室町期に入って用いられたので『吉田兼好』の称が不適当であることは既に指摘されているが、兼倶以前に兼好が卜部氏であることに言及した者はいない。『兼好法師』の称を用いるべきであろう。」と述べている。
私もその立場を尊重して「徒然草」の筆者を「兼好法師(けんこうほうし)」と呼ぶ。
「徒然草」とは
「徒然草」はそんな兼好法師によって記された随筆である。
書かれている内容は人生・恋愛・政治・自然観・美意識などについてであるが、意外にも古来の先例である有職故実ついての記載も多い。
世間では「世捨て人の哲学書」のようにイメージされることも多い「徒然草」であるが、実際に読んでみればわかるように、意外と兼好法師は世を捨て切ってはいない。
山奥に籠ったりしているわけでもなければ、諸国を放浪しているわけでもない。兼好法師は俗世俗人に混じった上で、独特の着眼点で「発見」をし、自身の「想い」を綴る。「徒然草」は単純に「隠者文学」などと呼び捨てることができない多面性を持つ作品なのである。
角川ソフィア文庫の新版「徒然草」の解説において小川剛生氏は言う。
「無常観を強調した近代の読み方もそろそろ相対化されてよいと思われる。もちろん、その試みは本書だけで終わるものではない」
ならば私もやってみよう。「心の健康」という切り口での「徒然草」の相対化である。
もちろん言うまでもなく「健康(けんこう)」は「兼好法師」とかけた駄洒落である。グーグル先生、そこんとこヨロシクである。
「病を受くる事も、多くは心より受く」
「徒然草」第129段にはこのように述べられる。
「身をやぶるよりも、心をいたましむるは、人をそこなふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。ほかより来たる病は少し。」
(身体を損なうよりも、心を傷つける方が、人の健康を損なう点では、ひどいものである。病を受けることは、多くの場合心から受ける。外から来る病は少ない。)
俗に「病は気から」などと言われるが、兼好法師も精神が身体におよぼす影響の大きさを語っている。
確かに医学の発達した現代において、かつては治すことのできなかった病気も治せるようになった。
だが、その一方で「現代ならではの新たなストレス」が人々の心を苦しめるようになったように私には思える。
それではここから先は項目ごとに分類して、病める現代人の心を救う知恵を「徒然草」に求めてみよう。
おカネと仕事について
資本主義社会に生きる現代の日本人は金銭を求め、労働に勤しんでいる。だが日々の労働の中で強いストレスを感じ、それによって心身の健康を損なってしまう者がいるのも事実である。なぜ人は働くのか。働く日々の先にあるものはいったい何なのであろう。
「徒然草」第217段で兼好法師は、ある大富豪の言葉を引用した後で、このように述べる。
「そもそも人は、所願を成ぜむがために財をもとむ。銭を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。」
(そもそも人間は願いをかなえるために財を求める。金銭を財産として大事にするのは、願いをかなえるためである。願いがあってもそれを叶えず、金銭があっても用いないなら、まったく貧者と同じだ。何も楽しみがない。)
資産がいくらだとか、年収がいくらだとかは問題ではない。それで何を叶えられるのかが本当に大事なことなのだ。金銭はあくまでも手段に過ぎない。
また第166段にはこのように記されている。
「人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を造りて、そのために金銀珠玉の飾りを営み、堂を建てむとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見る程も、下より消ゆる事、雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。」
(人間の励んでいる仕事を見ると、春の日中に雪で仏をつくって、その溶けやすい仏のために、わざわざ金銀や宝石で飾りをつけて、御堂を建てようとしているのに似ている。その堂が完成するのを待っても、雪の仏をうまく安置できるはずはない。人の寿命もまだあると思っていても、下の方から消えることは雪のようであるのに、将来のことばかり期待して働いていることが大変に多い。)
「いつか報われるはずだ。」「せっかく手にした仕事だから。」
そんなことを思いながら、自分の大事なものを日々溶かすようにして働いている人がいたら、兼好法師の言葉を思い出して欲しい。あなたにとって本当に大事なものが溶け切ってしまっては意味がないのだから。
だが、もちろん無収入・無資産で人は生きてはいけない。いったい何が人間にとって必要なものなのか。兼好法師の答えはシンプルである。
「朝夕なくてかなはざらむ物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。」(第140段)
(朝晩なくてはならない物は仕方ないが、それ以外は持たないのが理想的だ。)
情報化社会を生きる知恵
情報技術の発達によって現代人は日々、膨大な量の情報に接している。だが、一見便利なこの環境によって、どこか人々の心にゆがみが生じて来ているように私には見える。特にSNSを通じた炎上などの問題は、見ていていたたまれない気持ちなる。
「徒然草」に書かれたいくつかの内容は、そんな現代社会を生きる人々にも、充分有用なものである。
第164段を見てみよう。
「世の人、相ひ逢ふ時、しばらくも黙止(もだ)することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。」
(世の人が、互いに会う時、少しの間も黙っていることはない。必ず言葉がある。そのことを聞いていると、多くは無益な話である。世間のうわさ話、他人についての是非、自分にも他人にも損失が多く、得るものは少ない。これを語る時に、人々は互いに心の中で無益だということがわかっていない。)
兼好法師の言葉をそっくりそのまま、SNSに置き換えてみればよい。
「SNSにはつぶやきが溢れている。だがその多くは、うわさ話や人の悪口ばかりで無意味な情報だ。これらの情報には得るものは少ない。だけどSNSをやっている人はそれに気づいていない。」
まさにその通りではないか!
それなのに、現代人はその無意味な情報に一喜一憂して心を乱している。
イイネ!ボタンを連打したり、時には炎上に加わったり。
SNSに疲れた人達はこの兼好法師の言葉を肝に銘じておくとよい。
「多くは無益の談」なのである。そう思えば気持ちも楽になる。
また、余計なことをつぶやいて、自らがトラブルの火種となってしまうようなタイプの人は、第233段にある以下の言葉をよく自分に言い聞かせておくとよいだろう。
「よろづの咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少なからんにはしかじ。」
(万事に過ちがないように心がけるなら、何事にも誠実で、人を差別せず、礼儀正しく、口数が少ないのが一番よい。)
誠実に振る舞い、余計なことは言わないのが良いのは、実社会もSNS上も同じである。
さらに、SNSなどで他人の出世や幸福ぶりを見て、嫉妬心や憎悪をかきたてられてしまうようなタイプの人は、第85段を熟読して欲しい。
「人の賢を見て羨むは尋常(よのつね)なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。」
(人の賢い様子を見てうらやましく思うのは普通のことだ。至って愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、これを憎む。)
今も昔も人間心理は同じである。そんな人に向かっても、兼好法師はアドバイスをしている。
「狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。」
(狂人の真似だといって道路を走ったら狂人である。悪人の真似だといって人を殺しても悪人である。)
人は悪いことを模倣することもできるが、逆にいえば良いことも模倣できるのである。
「偽りても賢を学ばむを賢といふべし。」
(偽ってでも賢人を手本に学ぶことができるのを賢人というのだろう。)
「もしうらやましいと思うような対象がいたらそれを憎むのではなく、それを真似てみることから始めてみよ」というアドバイスである。
まとめ
さて、ここまではいくつかの具体例の中での「心の健康法」を述べてきた。
このように、「徒然草」は現代人にとっても有用な知恵がたくさん詰め込まれている「叡智の宝庫」と言っても良い書であると私は思っている。
是非、読者諸君にも、実際の本を手に取って「自分にとっての最適な心の処方箋」を発見してもらいたいと思っている。
最後に、より根本的な事を述べておきたい。なぜ人は心の健康を損なうのか。
私はそこに「過度の期待」というものを感じてしまうのだ。「こうでなければならない」という思い込みのようなもの。
ある意味それは「理想」と呼ぶべきものであるかもしれないが、時にそれは人を束縛し、心の自由を奪う結果となる。
だが「すべては思い通りになるとは限らない」のだ。
こういうことに根底で気づいている人間こそが、いつの世も、したたかで柔軟に心の健康を保てるように私には思える。
最後に「徒然草」189段を参照したい。
「今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で来て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。
(今日はその事をしようと思っても、思わぬ急用が出来てそれに紛れて過ごして、待つ人は支障があって来ず、あてにしない人がやって来る。あてにしている方面のことはあてが外れて、思いもよらないことばかりが叶っていく。煩わしいだろうと思っていたことは大したことがなく、たやすいと思っていたことは大変に心を苦しめる。)
まさに「予定通りにいかないのが人生」である。
「日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。一年のこともかくの如し。一生の間もまたしかなり。かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよいよものは定めがたし。不定と心得ぬるのみ、誠にて違はず。」
(日々が過ぎていく様子は、前もって思っていたのとは違う。一年のこともこうである。一生のこともまたそうである。だが、前もっての計画のすべてが違っていくのかと思うと、たまには違わないこともあるので、ますます、ものは定めづらい。万事は定まっていないと理解することのみが、真実であり間違いがない。)
これは私、武蔵大納言が17歳の時に買った「徒然草」の角川文庫の旧版。
あの時には、こういう真理はわからなかったが、ここまでの人生を振り返れば、叶わないことや、まさかの急展開がたくさんあった。
当時こうなろうと思っていた人生とは違うかもしれないが、私は決して不幸せではないぞ。
このたび、この記事を執筆するに当たって角川文庫の新版で「徒然草」を読み直して、そんなことを感じた。定まっていないからこそ人生は面白いのである。
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