倭国、邪馬台国、卑弥呼、前方後円墳。
弥生時代になるとよく耳にするワードが登場するようになる。しかし、その定説も近年の調査で変りつつあるのだ。
弥生時代の始まり
弥生時代の始まりの時期については現在も諸説入り乱れているが、定説では紀元前3~4世紀とされている。
本格的な水田稲作の普及が縄文時代から弥生時代への変化を促した。これまでは、稲作時代の始まりは弥生時代からとされていたが、現在は「稲作自体は縄文時代から始まっていた」ことが新たな定説となっている。弥生時代の始まりを稲作の開始と捉える考え方は古いものだ。さらに水田での稲作が日本列島に広がり、集落や文化、社会構成の変化に大きな影響を与えたのが弥生時代だったのである。
弥生時代において最初の大きな出来事として、大陸から青銅器や鉄器が伝来したことがある。それにより、狩猟、採集、漁撈を基本とする縄文社会から、水田稲作が本格的に広まり、稲作を中心とする農耕社会へと変化していったと考えられるようになった。
集落は水田稲作に適した低ちや平野部に形成されるようになり、初めて貧富の差が生れるようになる。集落同士が集まり、「クニ(小国)」と呼ばれる集団を形成して、首長はその権威を誇示する大型の墳丘墓を造るようになった。
邪馬台国の成立
稲作は食糧生産の安定と共に弥生時代に貧富の差をもたらすことになる。
時代が進むとともに「持つ者」が支配し、「持たざる者」が従う社会階級の差となってゆくのだ。クニ同士の軍事衝突が頻発したことは中国の歴史書にも記載がある。
「三国志」「後漢書」などによると、弥生時代後期にあたる2世紀後半、日本は「倭国大乱」と呼ばれる戦乱の中にあった。戦乱の地域は特定されていないが、日本列島の多くの地域を巻き込んだ日本史上初の内戦だったという見方もある。この戦乱を収めるために擁立されたのが、邪馬台国の卑弥呼だった。
長年続いた戦乱を収めるためにクニ同士が協議して卑弥呼を女王とすることで戦乱は収まった。クニの首長たちが共立したという記述から、卑弥呼が君臨した邪馬台国は、クニ連合の盟主だったと考えられている。
邪馬台国はどこに?
「三国志」の「魏志」倭人伝(通称)には、邪馬台国と卑弥呼について詳細に記述されている。
1世紀に奴国(なこく)が漢と交流し「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印を授かったように、邪馬台国も魏と外交関係を築いていることも邪馬台国の存在を裏付けるものとなった。ちなみに奴国とは、現在の福岡県に存在したと考えられる国のことだ。
卑弥呼は魏へ朝貢し、魏帝から「親魏倭王(しんぎのわおう)」の金印などを授かっている。卑弥呼の死後(3世紀中頃)、男王が立つが倭国は再び乱れ、壱与(いよ)が女王となることで戦乱は収まったとされる。しかし、魏に代って興った西晋(せいしん)の「晋書(しんじょ)」を最後に邪馬台国に関する記述はない。
邪馬台国はその後どうなったのか?
古墳時代以後、日本の中心となるヤマト王権とのつながりはあるのか?
邪馬台国に関連する遺跡が見つかれば、多くの謎が解明されるに違いないが、そもそも邪馬台国がどこにあったのかも判明していないのは承知の通りだ。「魏志」倭人伝の記述どおりに進むと九州を通り越し、はるか太平洋上に到達してしまうのだ。
その所在を巡っては、有力な二大諸説である北部九州説と畿内説が対立し、邪馬台国論争は決着がつかないまま現在にいたっている。
邪馬台国畿内説
【※纒向遺跡の一部。右端が箸墓古墳】
邪馬台国が畿内にあったとする邪馬台国畿内説の有力候補地が奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡である。弥生時代末期から古墳時代前期にかけて営まれた大集落遺跡で、JR桜井線巻向駅を中心に東西2キロ、南北1.5キロの広範囲に及ぶ。この遺跡には二十数基の古墳が点在しているが、発掘調査後に埋め戻されているため見ることはできない。
しかし、ここでは古代の歴史を検証するうえで重要な遺物の数々が出土した。
2009年(平成21年)の発掘調査では、大型建物群が発掘され、「卑弥呼の館か?」と騒然となった。そのため古墳群のなかでも最大の箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墓と考える研究者も多い。
築造年代は諸説あるが、240~260年頃の築造説があり、これが卑弥呼の没年に近いことなどが根拠となっている。
邪馬台国九州説
【※吉野ヶ里遺跡】
1989年(平成元年)、佐賀の「吉野ヶ里(よしのがり)で大規模な環濠(かんごう=空堀)集落発見」と大々的に報道され、考古学ブームを巻き起こしたのが吉野ヶ里遺跡だ。
「魏志」倭人伝の邪馬台国の描写にある特徴を備えていたことから「邪馬台国発見か?!」と期待されたが、邪馬台国との共通点だった建物や施設の築造年代がより古いことが判明した。これにより吉野ヶ里遺跡=邪馬台国の熱は冷めることになる。
しかし、吉野ヶ里遺跡の考古学的価値が下がったわけではなく、弥生時代全般にわたって存続し、当時の暮らし、産業、祭祀、クニの成立過程などに関する豊富な情報を有する貴重な遺跡となった。
最後に
弥生時代=邪馬台国というイメージが強いが、他にも古墳時代に向けて急速に文化が発達したのが弥生時代である。
より大規模な集落がクニとなり、やがて邪馬台国の出現につながる。文化的な進歩こそがその根底にあるのだ。
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