山県昌景 赤備えの武名
山県昌景(やまがたまさかげ)は甲斐武田家の信玄・勝頼の父子2代にわたって仕えた武将であり、後の世においては武田4名臣や、四天王にも数えらている人物です。
昌景は、武田家の家老を務めた飯富虎昌(おぶとらまさ)の弟または甥にあたる人物とも伝えれていますが、その虎昌から武具を朱塗で統一した精強な「赤備え」の兵を受け継ぎ、率いて名を馳せた武将でした。
この「赤備え」という名称を、遠く他国の兵にまで知られ恐れられる部隊としたことで、後の時代の井伊直政や真田信繁に繋がる精鋭部隊の代名詞とした強者でした。
しかしその実、昌景自身は当時としても非常に小柄で、その容貌も決して武名に即したものではなかったとされています。
山県への改姓
昌景は享禄2年(1529年)の生まれと伝えられており、まず信玄に近侍として仕えたとされています。
信濃への侵攻の際に初陣を飾ったものとみられており、やがて信玄の側近として若年の家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人に選任されました。
昌景は天文21年(1552年)にそれまでの武功を評価されて、若くして騎馬150持の侍大将に就きます。
昌景が山県の姓を名乗ることになったのは、永禄8年(1565年)10月に発生した事件がきっかけだったようです。この事件は、信玄の嫡男である武田義信とその傅役を務めた飯富虎昌が謀反を起こしたというものでした。
虎昌がこの謀反を企てたことで、飯富の名が主君に歯向かった罪人となったため、昌景は自らも武田家を辞する覚悟だったと言われています。しかし昌景の際を惜しんだ信玄が、虎昌が率いた赤備えの部隊と、武田家の譜代の家臣ながら断絶していた山県の名跡を継いで仕えるように命じたことから山県昌景を名乗ることになったと伝えられています。
信玄の西上作戦
その後の昌景は今川氏の駿河への侵攻や、相模方面での北条氏との戦さに従軍し、永禄12年(1569年)には駿河の江尻城の城代を任じられました。
また同年に北条勢との間で行われた大規模な山岳戦・三増峠の戦いにおいて、緒戦を優位に進めていた北条勢を昌景の別動隊が奇襲を成功させ、この働きで味方の退却を援けける働きをしたとされています。
元亀3年(1572年)に信玄が上洛を目指して西上を開始すると、昌景は別働隊の兵5000を指揮して三河の東部へと進みました。
ここで昌景は長篠城を経由した後に浜松へと兵を進め、柿本城・井平城・段嶺城・奈倉城など徳川勢の6つもの城を陥落させたと伝えられています。
同年の12月に武田勢と家康との三方ヶ原の戦いが行われた際には、数に勝る武田勢が優勢に戦を進める中『甲陽軍鑑』によれば、昌景勢が窮地に陥った局面があり、ここでは勝頼勢が昌景を救ったとも言われています。
この戦で家康を破った武田勢ではありましたが、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が病没したことで西上の作戦は中止させることとなりました。
長篠の戦い
信玄の後を継いだ勝頼は、天正2年(1574年)に東美濃へと侵攻しました。ここで明智城をめぐっての戰いが発生しました。
この戦いにおいて昌景は、後詰に現れた織田信長の兵30,000に対して、山の地形を巧みに利用した戦術を用いて僅か6000の手勢ながら、織田勢を退けたと伝えられています。
一説には、この時 昌景勢は信長の護衛として周囲を囲んでいた16騎の内の9騎を討ち取り、残り7騎も逃亡するなど、信長の本陣まで攻め込みました。
続く翌天正3年(1575年)5月、武田勢は織田・徳川連合軍との長篠の戦いを迎えました。この中で同年5月21日に武田勢が大を喫することとなる設楽ヶ原の戦いが行われます。
昌景はここでは武田信豊の指揮下にあって左翼の主力として戦い、徳川勢の大久保忠正と交戦し、敵陣へと突入しましたが、馬上で17ケ所にもわたる銃弾を浴びて討ち死にしたと伝えられています。
「信長公記」によれば、長篠の戦いで討ち取った武田勢の武将の筆頭に昌景の名が記されており、信長側から見ても、武田の将として最も重要視されていた武将であったことが伝わってきます。
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