天下人の茶道
千利休(せんのりきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長、豊臣秀吉の二人に天下人に仕えた大茶人であり、後の世には「茶聖」とも称された人物です。
利休の高弟たちは、古田織部、蒲生氏郷、細川忠興などがあり「利休七哲」と呼ばれて、各々がその教えを受け継ぎ、或いは発展させて今日にも伝えられています。
一介の商人であり、茶人であった利休ですが、その最後は秀吉に切腹を命じられるという悲劇的なものでした。
千利休 の謂れ
利休は大永2年(1522年)頃、和泉の堺の商人の家に生まれたとされています。
若き頃より茶の湯を学び、17歳で北向道陳に、次に武野紹鴎に師事して研鑽に努めたと言われています。
以後信長が堺を直轄の領地とした際に、その茶道として仕える事になりました。
信長が本能寺に倒れるとその後を継いで天下人となった秀吉に同じく茶道として仕えました。
秀吉によって主催された天正13年(1585年)10月の正親町天皇を迎えた禁中献茶に際し、宮中へ参内する身分として禅僧の最高位の格である居士号「利休」を勅賜されさと伝えられています。
豊人政権の利休
豊臣政権における利休は、秀吉の信任を受けて3,000石の碌を領する、天下の茶人としてその名を知られる存在となっていきました。
利休は、秀吉がその権勢を世に知らしめる目的で開いたとされている天正15年(1587年)の北野大茶湯を取りまとめ、また秀吉の所望した黄金の茶室の設計を行い、更に自らの求めた茶のための草庵茶室や、楽茶碗の製作などを行いました。
秀吉が築いた京の聚楽城内にも屋敷を与えられ、聚楽第の庭の造営にも関わったと伝えられています。
このころの利休は、豊臣政権の政にも大きく関与していたようです。
国元を島津に脅かされ、秀吉に助けを求めて大阪城を訪れた大友宗麟は、秀吉の実弟・秀長から「公儀のことは私に内々のことは利休に相談するように」と忠告を受けたとも伝えられています。
「わび茶」と利休
利休といえば「わび茶」と思われがちですが、言葉上で「わび茶」という呼称が発生したのは江戸時代であり、村田珠光や千利休らの時代にはまだ名称としては存在していなかったようです。
利休が生きた安土桃山時代には、「侘数寄」「わび数寄」という言葉は確認されていますが、これは「わび茶」のことではなく、有名な茶器つまり名物を持たない茶人のことを指していたようです。
しかしこの当時はただ「わび茶」という名称が存在しなかったというだけで、利休が極めた草庵の茶が「わび茶」であることに違いはありません。
「わび茶」は室町より続いた、書院における豪華な茶の湯の対極に位置するものであり、安土桃山時代に千利休が完成させた、極力無駄を省いて簡素に徹しその中に様式美を見出すものと言えました。
利休の最期
利休は天正19年(1591年)に突如として秀吉の勘気に触れ、堺への蟄居を命じられました。
これを聞いた前田利家や、利休七哲の古田織部、細川忠興らの弟子たちが助命を願い出ましたが適わず、京に呼び戻された利休は、聚楽屋敷において切腹を命じられて享年70にして果てたとされています。
利休が秀吉に切腹を命ぜられた理由については、今に至るまで明確には分かっていません。
通説としては、大徳寺山門の改修に際して、自分の木造を二階部分に設置させたことで、その下を秀吉に通らせるという、不敬な行いをしたということが伝えられています。
説の多くは、当時の豊臣政権内での権力闘争に結び付けられており、石田三成を中心とする文治派の差し金とする向きが多いようです。
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