戦国時代

朝倉義景 ~「信長を苦しませ頭を下げさせた 姉川の戦いと志賀の陣」②

朝倉義景・浅井長政連合軍は「金ヶ崎の退き口」にて、「戦国の魔王」と呼ばれた織田信長をあと一歩のところまで追い詰めたが、取り逃がしてしまった。

今回は前回に引き続き、信長を最も追い詰めた武将・朝倉義景(あさくらよしかげ)について解説する。

姉川の戦い

命からがら京都に逃げ帰った信長は、美濃(岐阜)に戻り、軍を立て直した。

元亀元年(1570年)6月、織田・徳川連合軍3万の軍勢で出陣。浅井・朝倉連合軍と浅井領の姉川で激突する。(姉川の戦い

朝倉義景

姉川の戦い

織田・徳川連合軍は、信長を総大将に柴田勝家佐久間信盛秀吉ら、いわゆる織田家オールスター軍団であり、徳川軍には猛将・本多忠勝らがいた。

しかし、この時の朝倉軍の総大将は義景ではなく、義景の従兄弟・朝倉景健(あさくらかげたけ)であった。
朝倉方の兵は1万5,000とも8,000とも言われている。

なぜ義景は、姉川の戦いに出陣しなかったのだろうか?

実は義景は嫡男・阿君丸を生んだ側室の小宰相を寵愛していたが、足利義昭がまだ朝倉家にいた時に阿君丸が亡くなり、小宰相もその前に若くして亡くなっており、とても落胆していた。
その後、義景は側室の小少将を溺愛したが、小少将は後に世継ぎとなる愛王丸を宿して体の調子を崩しており、それが心配だった義景は姉川の戦いに出陣しなかったという。

6月28日の早朝、姉川の戦いが始まると、当初朝倉軍は徳川軍相手に優勢に戦いを進めた。
朝倉軍には当時日本一の怪力傭兵一家と呼ばれた、真柄直隆(まがらなおたか)率いる真柄一族がいた。

朝倉義景

※本多忠勝(左)と真柄直隆(右)の一騎打ちの図

2mを超える大男・真柄直隆らが徳川軍を蹴散らしていると、そこに徳川随一の猛将・本多忠勝が現れ、直隆の「太郎太刀」と忠勝の名槍「蜻蛉切り」での一騎打ちとなったという。

結果は勝負つかずだったが、徳川軍の榊原康政が朝倉軍の陣が崩れた西の側面から攻め、それにひるんだ朝倉軍は敗走し始めてしまった。

その後、織田軍と戦っていた浅井軍も敗走を始めたため、結果的には織田・徳川連合軍が1,100人余りを討ち取って勝利した。

その合戦の場所は多くの血が流れたことで「血原」や「血川」という地名がついたという。

浅井家側では軍師の遠藤直経や、長政の実弟・浅井正之を始め、浅井家の中心的な役割を果たしていた武将が戦死した。
朝倉家側では真柄直隆・真柄直澄・真柄隆景ら真柄一族が討死にし、浅井・朝倉の多くの兵が戦死したが、織田方でも多くの戦死者が出た。

この戦いは織田・徳川連合軍の勝利とされているが、この時点では浅井・朝倉の主力部隊はまだ余力を残しており、義景の軍も越前にいたため壊滅的な打撃を受けてはいなかった。

しかも近江・越前周辺で比叡山の僧兵衆らと手を結んでいたため、近年の研究では姉川の戦いは織田・徳川軍の一方的な勝ちではなく、引き分けに近かったとされている。

朝倉義景の逆襲

同年8月、信長は三好三人衆討伐のために将軍・義昭らと摂津国へ出兵し、三好勢を追い詰めていた。

信長と敵対していた大坂の石山本願寺が挙兵、これを好機と見た義景は隙をついて浅井軍と共に3万の兵で出陣、9月20日に織田領の近江坂本に侵攻する。
信長の弟・織田信治と織田家の重臣・森可成を敗死に追い込み、京都の醍醐・山科に進駐し将軍御所を目指した。

これにより三好三人衆・石山本願寺・浅井・朝倉軍の「第一次信長包囲網」を形成した。

朝倉義景

1970年頃の勢力図。赤字が第一次信長包囲網勢力。戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ を元に作成

特筆すべきは、義景が長年敵対し悩まされ続けていた一向一揆勢と手を結んだことであった。
一向一揆の総本山である石山本願寺と義景が手を結んだのは「打倒信長」という同じ目的のためであり、義景は長年の敵対勢力とも手を結ぶという柔軟性を持っていたことがわかる。

信長は「京を落とされてはならぬ」と石山本願寺との戦いを切り上げ、京都へと向かった。

信長の帰京を知った義景は、京都の鬼門・北東にある比叡山延暦寺に向かった。延暦寺は古くより朝倉氏から援助を受けていた寺院だった。
比叡山はまさに天然の要害であり、義景は延暦寺で陣を構え信長を迎え討とうと考えたのである。

攻めあぐねた信長は延暦寺に対し「朝倉・浅井軍に味方をするな。信長軍につけ!そうしなければ延暦寺を焼き払う」と警告する。しかし延暦寺に無視されてしまい、両軍のにらみ合いは3か月にも及んだという。

この戦いが、信長が最も苦しんだとされる「志賀の陣」である。

信長は無理に攻め込んでも自軍の被害が甚大と考え、山を下りての決戦を申し込んだが義景がこれに応じる訳はなかった。万策尽きた信長が頼ったのは将軍・義昭正親町天皇であった。

これを受け将軍・義昭と関白・二条晴良らが坂本に下向し和睦の調停を行ったため、義景もようやく信長との和睦を受け入れた。

その際、信長は義景に対し頭を下げ「天下は朝倉殿が持ち給え、我は二度と望みなし」という書状を出したという。(※但し三河物語のみの記述

天下は義景が持ち、自分は二度と望まない」という意味であるが、この史料の真偽はさておいても和睦したのは事実であり、信長は再度 義景に追い詰められたのである。

朝倉義景の最後 ~「信長に逆転され金箔のドクロにされる」③

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 12日 2:38pm

    すごいなぁ、姉川の戦いは信長・家康の勝ちだと思っていたけど、義景本人がいなかったのか?

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