日本民俗学の祖である柳田国男(やなぎた くにお)が、岩手県遠野地方出身の佐々木喜善(ささき きぜん)、号・鏡石から聞いた伝承をまとめた『遠野物語』。
そこには現世と異界の境も定かならぬ逸話が数多く記されています。
今回取り上げる嘉兵衛(かへゑ)は、遠野地方で語られた狩人で、狩猟生活を通じて多くの怪異に遭遇した人物として伝えられています。
果たして嘉兵衛がどんな体験をしたのか、一緒に見ていきましょう。
※見出しの頭にある数字は『遠野物語』における話数を指します。
三、山女を撃ち殺したこと

画像 : 嘉兵衛と山女 イメージ 草の実堂作成(AI)
嘉兵衛が若いころ、獲物を探して山奥を歩いていると、岩の上に美女が座っているのを見つけました。
美女は長い髪を櫛でとかし、山暮らしには不似合いなほど色白でした。
嘉兵衛はこれを見て怪異に違いないと判断し、直ちに鉄砲を向けて彼女を撃ち殺しました。
山女を仕留めたと思って近づいてみると、彼女は随分と背が高く、その髪はその背よりも長かったと言います。
これだけの大女だと、さすがに担いで帰るわけにもいきません。と言って手ぶらで帰っても、大物を仕留めたことをみんなに信じてもらえないでしょう。
そこで嘉兵衛は山女を仕留めた証拠として、彼女の髪を一部切り取ってわがね(輪っかに束ね)、懐に入れて持ち帰ることにしました。
かくして嘉兵衛は意気揚々と家路をたどりますが、その道中で眠気に襲われ、一歩も動けなくなってしまいます。
ちょっとだけ休もうと横になった嘉兵衛は強い眠気に襲われ、うとうととまどろんでしまいました。
すると夢とも現実ともつかぬ中で、どこからともなく大きな山男が現れます。きっと先ほど嘉兵衛が撃ち殺した山女の亭主でしょう。
山男は嘉兵衛の懐に手を突っ込み、わがねた山女の髪を取り出して、そのまま去っていきました。
普通ならここで嘉兵衛を祟り殺すなりしそうなものですが、山男が嘉兵衛に手をかけなかったのは髪を取り戻すことだけが目的だったのかも知れません。
山男が立ち去ると嘉兵衛は目を覚まし、髪を取り返されたことを残念に思いながらもそのまま家路をたどったということです。
四一、狼の大群に襲われる

画像 : 狼の群れ(イメージ)
ある年のこと。嘉兵衛は境木越(さかいぎごえ)の大谷地へ狩りに出かけました。
ここは死助(しすけ。地名)から広がっている草原で、秋の暮れには木の葉も落ち尽くし、ずっと遠くまで見通せます。
ふと目を向けると、向こうの峰から何百頭もの狼が群れをなしてこちらへ押し寄せてくるではありませんか。
巻き込まれたら一大事、しかしもう逃げることはできません。
震え上がった嘉兵衛は、少しでも丈夫な樹の上に昇って狼の大群をやり過ごそうとしました。
よもや自分を狙っているわけではあるまい、じっとしていれば、このまま通り過ぎて行ってくれるはず……嘉兵衛は生きた心地がしなかったことでしょう。
間もなく狼の大群が嘉兵衛のいる樹まで到達し、そのまま怒涛のごとき勢いで通り過ぎていきました。
狼の大群はそのまま北の方角へ走り抜け、やがて姿を消します。
「何だったんだ、ありゃ……」
この出来事の後、遠野郷では狼がめっきり少なくなったと伝えられます。
やがて明治末期にはニホンオオカミが姿を消していくため、この狼の大群も、時代の変わり目を思わせる不思議な光景だったのかも知れません。
六〇、狐にからかわれる

画像 : 嘉兵衛をからかうキツネ(イメージ)
ある日、嘉兵衛がキジ撃ちに出かけ、キジ小屋(気づかれないよう潜伏する仮設小屋)でじっと獲物を待ち構えていました。
嘉兵衛は熟練の狩人ですから、キジが出没するポイントは心得たものです。辛抱強く待っていると、やがてキジが姿を現しました。
さぁ撃とうと銃を構えた嘉兵衛ですが、次の瞬間にキツネがやって来てキジを追い払ってしまいます。これではいくら名手でも撃てません。
気を取り直して再び待ち構えていると、再びキジが現れたものの、再びキツネが飛び出してキジを追い払ってしまいました。
そんなことが何度も続いたのです。
「おのれキツネめ、きっと悪意をもって狩りの邪魔をしているに違いない」……嘉兵衛はいよいよ頭に来て、今度はキツネそのものを撃とうとしました。
ですが、引き金を引いたのに銃が発砲しません。よもや故障してしまったのでしょうか。
嘉兵衛が急いで銃を調べてみると、どういうことか銃身に土がびっしりと詰められていたのです。
日頃から銃の手入れを欠かさない嘉兵衛のこと、こんな状態なら気づかないはずはありません。
「これはキツネの怪異ではあるまいか」……嘉兵衛はその日のキジ撃ちを諦めざるを得ませんでした。
六一、白鹿を撃ってはみたが

画像 : 白い鹿(イメージ)
またある時、嘉兵衛は六角牛(ろっこうし)まで狩りに出ます。
そこで白い鹿を発見します。
白い鹿は山の神であり、一度傷つけて仕留め損ねれば必ず祟られるとの言い伝えがありました。
だったら最初から撃たねばいいのですが、嘉兵衛は名うての狩人でしたから「神の祟りを恐れて逃げた」と世間に笑われるのが我慢なりませんでした。
よし、やってやろうじゃないか。嘉兵衛は思い切って白い鹿の急所を目がけて発砲しました。
しかし、白い鹿は倒れもしなければ逃げもしません。そもそも微動だにしなかったのです。
確かに銃弾は当たったはずですが、もしこのまま取り逃がせば祟られてしまいます。
そこで嘉兵衛は、魔除けとして常に持ち歩いていた黄金の銃弾を取り出し、これに同じく魔除けとなるヨモギの葉を巻きつけて銃に装填しました。
これで仕留めなければ、もう打つ手がありません。必死の思いで嘉兵衛は白い鹿を撃ち、再び手ごたえがありました。
しかし、それでも白い鹿は微動だにしません。
「さすがにこれはおかしいだろう」……嘉兵衛は恐る恐る白い鹿に近づいてみました。
すると嘉兵衛が白い鹿だと思っていたのは、鹿に似た形をした白い岩だったのです。
もう何十年と山々を歩き暮らした熟練の狩人が、岩と鹿を見間違えるなど考えられません。これはきっと魔障のなせる業だったのでしょう。
このままでは山の神に祟られてしまうと思った嘉兵衛は、この時に狩人を引退しようと決意したそうです。
六二、空を飛ぶ大坊主

画像 : 妖怪坊主(イメージ)
一旦引退を決意した嘉兵衛ですが、結局狩人を辞められませんでした。
よほど山の暮らしが性に合っていたのか、あるいは里の暮らしが合わなかったのでしょうか。
ある日、夜遅くまで狩りをしていた嘉兵衛は、山の中で野宿することにしました。
できれば仮小屋でも組みたかったところですが、不案内な土地では下手に動き回れず、資材の調達もままなりません。
嘉兵衛は仕方なく、大木に寄りかかって仮眠をとることにしました。
そして魔除けのサンズ縄を取り出し、大木の周りを三重に囲い、愛用の銃を抱えながら大木にもたれてまどろんだのでした。
夜更けになると、嘉兵衛は大きな物音で目を覚まします。
見上げると赤い衣をまとった大きな坊主が、鳥が羽ばたくように何度も衣をひるがえしていました。
「出たな!」
嘉兵衛は仕込んでおいた銃を素早く構え、狙いを定めて発砲します。
銃声の響きに驚いたのか、大坊主は衣を羽ばたかせながら夜空へと飛び去り、そのままどこへともなく消えてしまいました。
これまで何度も恐ろしい思いをしてきた嘉兵衛ですが、この時ほど恐ろしかったことはなかったそうです。
終わりに
今回は『遠野物語』より、狩人の嘉兵衛が遭遇した怪異について紹介してきました。
嘉兵衛はその後、もう狩人を引退しようと決意して氏神様に願掛けまでしますが、結局は狩人暮らしを辞められなかったそうです。
いったい何が嘉兵衛をそこまで山へ向かわせたのか、あるいは既に魅入られていたのかも知れませんね。
『遠野物語』には、他にも興味深い伝承が多く収録されているので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
柳田国男『遠野物語』集英社文庫、2011年6月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。