安土桃山時代

支倉常長【250年の時を超えてヨーロッパと日本を繋いだ武士】

実は合同だった遣欧使節

支倉常長【250年の時を超えてヨーロッパと日本を繋いだ武士】

※慶長遣欧使節関係資料 支倉常長像

支倉常長(はせくらつねなが)は東北地方の雄・伊達政宗の家臣として、その命を受けて遠くヨーロッパまで赴いた稀有な人物でした。

日本史の中では「慶長遣欧使節」として、政宗がヨーロッパに遣わした使節として知られていますが、実はこの使節団は政宗の仙台藩と、徳川幕府の合同による派遣だったことはあまり知られていないのではないかと思います。

歴史を題材とした創作の中では、徳川幕府の転覆をも目論んだ政宗がスペインの後ろ盾を得ようとした行動として描かれることが多いことから、そうした見方が一般的に流布されているように思われます。

しかし実際には幕府の許可を受けた公的な使節でした。

使節の目的

※サン・ファン・バウティスタ号の復元船

慶長遣欧使節」は慶長18年(1613年)に、仙台藩において建造されたサン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島から出発しました。

最初の目的地は現在のメキシコのアカプルコであり、太平洋を渡って約3ケ月の航海の後にその地へと到着しました。

徳川幕府の目的はメキシコとの直接の交易を実施する事だったと伝えられており、このために幕府と仙台藩との合同による使節団が編成されていまいた。
一方、仙台藩単独の別組織としてヨーロッパに向けた使節団があり、こちらは政宗を日本におけるキリスト教布教の元締めとして認める事の請願や、スペインとの交易が目的であったと伝えられています。

この二つの使節団で約150名から180名の人数であったと伝えられています。

スペイン国王との謁見

その後、仙台藩単独の訪欧使節のみのがメキシコからキューバを経由し、スペインへ向けて大西洋を渡りました。
無事南スペイン・アンダルシアへと辿り着いた一行は、さらにマドリードへと向かいました。

そうして1615年1月末、日本を出発して約1年と3ケ月後に常長と宣教師のソテロはスペイン国王との謁見を果たしました。

常長はこの謁見において政宗から託された親書と、和平条約の締結を請願する文書を手渡したとされていますが、スペイン国王からの具体的な返答はなかったと伝えられています。

マドリードにおいて支倉は、自身が熱望していた洗礼式を受けて洗礼名ドン・フィリッポ・フランシスコを与えられましたが、使節として外交上の具体的な成果は得られないままでした。

カトリック側の政治利用

常長ら一行は、その後マドリードからバルセロナ経由で地中海を通ってイタリアのローマへと向かいました。

ローマにおいても、当時のローマ教皇パウロ5世との謁見式を始め盛大な歓待を受けましたが、この歓待の裏にはカトリック教会の影響力が遠く極東の日本にまで伝わっていることを、アピールする政治的意味合いが濃いものでした。

常長ら使節はローマ教皇へ宣教師の日本への派遣、司教の任命、スペインとの交易の支援、政宗を日本におけるキリスト教布教の元締めとして認める旨などを請願しましたが、前者2つ以外は認められず、ローマでも得られた成果はほとんどありませんでした。

この後常長らは一旦スペインへと戻りましたが、スペイン政府からは国外追放を命じられ厄介払いされることになりました。

明治の使節団が感銘

常長はそれでもスペイン政府への解答を得ようとヨーロッパに滞在しましたが果たせず、元和6年8月(1620年9月)7年振りに日本へと帰国しました。
しかし有効な成果はなかった上、帰国した日本では既に幕府がキリスト教を禁止する政策へと転換していました。

※「支倉常長像」ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。

常長は帰国からわずか2年後に失意の内に世を去り、その渡航は歴史の中に埋没していきました。
しかし明治新政府が樹立され岩倉具視を中心とした欧米視察が実施されると、かつての忘れられた常長の渡航の痕跡に出会うことになりました。

約250年も前に常長ら日本の使節がスペインやローマまで訪れていたという事実を知り、深い感銘を受けたと伝えられています。

 

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学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
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