戦国時代で一番魅力的なのは、農民や商人から下剋上などで一国の大名に成り上がった人物がいたことだと思う。
今回は下克上した人物のその後の家のことについて書いていこう。
美濃の蝮 斎藤家のその後
まず最初に紹介する家は斎藤家。下克上を成し遂げた斎藤道三は一介の油商人から美濃守護土岐家の家臣となり、ついには美濃をとったまさしく下克上の人である。
しかしその道三は息子である義龍と不和であったことが原因で長良川の戦いで息子に攻められ討死した。
こうして斎藤家は義龍が当主となるが、道三を討ったことによって道三と同盟を結んでいた尾張の織田家と対立し始め戦争が度々起こってしまう。しかし、義龍は道三にも負けない軍才と内政スキルを持っており、道三ができなかった内政改革をどんどん推し進め、斎藤家の戦国大名としての地位を確立させていった。
しかし、長良川の戦いの5年後の1561年に義龍は病没。息子である龍興に後を継がせる。
しかし、この龍興がとんでもないバカ殿であり、さらに義龍が急死だったために斎藤家は大混乱。さらに織田家が美濃へと度々侵攻していき1567年には本拠地稲葉山城を織田家に占領され龍興は国を失ってしまった。
龍興は長島本願寺に身を寄せたのち朝倉家の家臣となり信長に反抗するが、その後、刀根坂の戦いで討死。斎藤家は滅亡してしまう。
暗殺の名手 宇喜多家のその後
次に紹介するのは宇喜多家。下克上を成し遂げた宇喜多直家は色々な手段でなりふり構わず敵対する家や同僚を手にかけ、最終的には主君の浦上家も追放。備前一国を支配するまでになった。
しかし、家を乗っ取った時には東には織田家、西には毛利家に挟まれており、直家はその対応に明け暮れる。結局、宇喜多家は織田家に臣従。織田家の配下となって毛利家と戦っていくことになった。そして1582年に直家は病没。息子の秀家が宇喜多家を継いだ。
しかし、直家が亡くなってからわずか4ヶ月後、本能寺の変が起こり信長は自害。秀家自身はその後天下人となる秀吉について最終的には岡山57万石の大大名となり、さらに五大老の一人に数えられるまでに成長したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたことが原因となり領地は没収。秀家は八丈島に流された。
その後秀家は八丈島で悠々自適な生活を送り、1655年に73歳で亡くなった。
ちなみに宇喜多家の子孫はまだ存在し、明治時代に一部の家は東京に戻ったそうである。
関東の覇者 後北条家のその後
最後に紹介するのは後北条家 北条早雲が堀越公方を滅ぼして伊豆を支配して以降、関東の覇者となった家である。
後北条家は3代目の北条氏康が河越夜戦において山内・扇谷上杉家を駆逐して関東のほとんどを支配し、次の4代目の氏政の頃には250万石の大大名となるが、1590年真田家の名胡桃城を攻撃したことによって小田原征伐を引き起こしてしまう。
氏政はこの迫り来る秀吉の大軍に対処しようと努めるも、後の世に言う小田原評定の状態が続き、どんどん後北条家の城は陥落していく。
結局、後北条家は降伏。氏政と弟であった氏照は切腹して後北条家は滅んでしまった。
が、実は後北条家の家系はなんだかんだで大名として明治維新まで残っているのである。
北条氏康の五男である氏親は親秀吉派で、さらに5代目の北条氏直は家康の婿だったことが功を奏し、なんとか後北条家という家は存続していった。
その後氏規が大阪の狭山というところに1万1000石の領地をもらい、狭山藩として後北条家は明治時代を迎えることになる。
最後に
下克上した人物の子孫はほとんどが滅ぼされたか、小藩として辛うじて残っているかの少しさみしい結末が待っていた。
しかし、その子孫たちはその志を受け継ぎ、戦国時代を渡り歩いていったに違いない。そう感じる。
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