仏教美術といえば、法隆寺に代表される飛鳥時代や阿修羅像が作られた天平時代について語られることがほとんどだろう。
厳かで壮大な表現は、我が国への仏教伝来から伝播までの歴史を読み解く資料として丹念に扱われてきた。一方で、近世以降の仏教文化については十分な検証がなされているとは言い難い。そんな中、江戸期に生きた僧・円空が作り出した円空仏に注目が集まっている。
生涯をかけて木の仏を造り続けたという円空とは、果たしてどのような人物だったのだろうか。限られた資料の中から、その人生を追ってみたい。
円空生まれし頃
円空の出生地については確かな記録がない。
寛永九年(1632年)美濃国生まれというところまでは分かっているが、寛政二年に刊行された「近世畸人伝」には、「美濃国竹が鼻」と記されている一方、名古屋市の寺に所蔵されている「淨海雑記」によれば、「安八郡中村」とも記載されている。
出家についても諸説あるが、前述の「淨海雑記」が教えるところでは、幼くして天台に入り、高田寺で胎蔵界金剛界両部の密法を学んだという。出家を決意させたのは、母親の死がきっかけだったいう史実が残っており、円空自身が詠んだ、「わが母の命に代る袈裟なれや 法のみかげは万代をへん」という歌が根拠となっている。
遊行聖と庶民の信仰
弘法大師や行基のように、地方を巡って様々な逸話を残しつつ、仏の教えを広める遊行聖というものが存在していた時代。庶民は、それら聖が手作りした素朴な仏像を信仰の対象としていた。時の支配者が作らせた華やかな仏像とは違い、雨風の降りこむ路傍の小祠にたたずむ仏たちである。
円空は、二十三歳から遊行聖として辺境に草臥し、三十二歳頃から仏を彫り始めたと言われている。作品はすべて木像だ。現在確認されているだけで、五千二百体に上るという。前述の「近世畸人伝」が言うところでは、「円空持てるものは鉈一丁のみ」だったらしく、作品に使う木は檜や杉など柔らかい材質を好み、滞在した村や山から切り出したと考えられている。
造仏の託宣
生涯で二万体の仏像を彫ることを発願していた円空。
滋賀県の大平寺観音堂にある十一面観音は180センチを超す作品だが、背面には「四日木切、五日加持、六日作、七日開眼」と記されており、木像作成に費やしたのは、わずか一日だったことがわかる。造仏にかける円空の意気込みが想像できるだろう。
ここまで仏を彫ることに力を注いだのには、ある神秘的なエピソードが関係していると言われている。
寛文年間から仏を彫り始め、延宝にかけて数々の木像を造り続けていた円空だったが、作品への自信を失いかけた時期があったという。延宝七年のことだ。円空は出生地の美濃にそびえる霊山・白山の神に答えを求め、滝行を行う。その時、「是に廟あり すなわち世尊」という声が響いてきたという。
廟とは仏が住む場所を表す。円空はこれを「円空仏は廟であるのだから、仏がいらっしゃる」という宣託と捉え、大いに奮い立ったという。
すべてのものに仏は宿る
円空仏の神髄は、木材の生成りを活かした表現にある、とはよく言われることだ。
白山神の託宣を受け、更にダイナミックな作風を確立していった円空は、木に宿る力を仏の姿へと昇華させていく。デフォルメしたようなユニークな姿も多い。円空仏の口元に微かに漂う微笑を見ていると、こちらまで笑みがこぼれる。
制作の際に削り落とした木端さえも千面菩薩とするなど、この世のすべてのものに仏が宿るという壮大で温かな思いを表現し続けた円空。伝承では、元禄八年に六十四歳で示寂したとされる。篤実な生き方そのものがまさに仏のような人物だったのではないだろうか。
関連記事:
微笑仏を造った木喰について調べてみた
この記事へのコメントはありません。