「奥羽の驍将」の異名
最上義光(もがみよしあき)は堂々たる体躯の持ち主で、怪力で武勇にも優れ「奥羽の驍将」の異名を取った戦国大名です。
最上氏はかつて羽州探題を務めた斯波氏に連なる家系であり、名門の武家でしたが戦国期には国人達に対する支配力が低下し、さらに義光の二代前の当主・義定の代に伊達氏に長谷堂城や上山城を奪われるなどの著しい勢力の衰退を招いていました。
こうした状況の中で最上氏を継いだ義光は、最終的に徳川幕府より57万石を拝領する奥羽の大大名となりました。
伊達氏からの独立
義光は天文15年(1546年)に父・義守の嫡男として生まれました。元亀元年(1570年)前後には義光が最上家の家督を相続したと考えられていますが、父・義守との間には何かしらの確執があったとも伝えられています。
この確執に乗じた伊達輝宗が義守の救助を名目に最上領への侵攻を試みました。周辺の諸将たちも伊達勢に従う不利な状況を義光は乗り切り、伊達氏の勢力下からの独立を果たしました。
最上郡の統一
最上家の当主の座を確立した義光が次に着手したのが、居城・山形城周辺の国人領主である天童氏、寒河江氏、上山氏、白鳥氏らを最上氏へと従属させることでした。
義光は天正8年(1580年)に上山満兼の家臣であった里見民部を調略し、民部に満兼を誅殺させることで上山城を傘下にしました。
続く天正12年(1584年)に義光は白鳥長久の娘と自らの嫡男・義康との政略結婚を企図しましたが果たせず、長久を山形城に招くと自らで斬殺し、その居城・谷地城を陥落させました。さらに寒河江高基を攻めてこれを滅亡に追い込みました。
勢いの乗った義光は天童氏を攻めましたが、延沢満延に阻まれて一旦敗退を喫しました。ここで義光は満延の子・又五郎に自らの次女を嫁がせて縁戚とし、外堀から天童氏を落として最上郡の全てを領国としました。
天下の趨勢
義光は天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条討伐の兵を挙げるとこれに従い、秀吉から所領の24万石を安堵する沙汰を得ました。また続いての秀吉の奥州征伐では仙北で発生した一揆を利用して小野寺氏の領国であった雄勝郡を獲得することにも成功しました。
秀吉没後の慶長5年(1600年)に徳川家康が会津の上杉氏の討伐を決定すると、義光を始めとする奥羽勢は家康へ与して東軍となり、上杉氏の居城・米沢城攻略に向けて兵を挙げました。
このとき上杉勢と呼応した石田三成が上方で挙兵したため、家康らは反転して上方へと兵を進め、義光ら北国の東軍は上杉景勝への抑えのために残されました。
長谷堂城の戦い
上杉勢は家康が上方に向かったこと知ると、直江兼続の率いる2万余名の兵で最上氏の領土へと侵攻しました。
これ対して最上勢は3千人程度しか動員できませんでしたが、義光は2千丁とも言われる鉄砲を用いて立ち向かいました。
このとき最上勢の畑谷城が上杉勢に落とされ、続いて長谷堂城も上杉勢が押し寄せましたが、志村光安ら籠城した約1千名の兵はこれを死守し、上杉勢・小野寺勢の猛攻を凌ぎました。
やがて上杉勢は関ヶ原の合戦で三成ら西軍が敗れたことを知り、長谷堂城攻略をあきらめて領国への撤退を始めました。義光は自ら前線に赴いて上杉勢の追撃を行うも、兼続を討ち取るには至りませんでした。
しかし義光は戦後上杉を退けた功によって、庄内地方の領有も家康から認められ合計57万石を領する大名となりました。
その後、義光は慶長19年(1614年)に居城・山形城で享年69にて病没し生涯を終えました。
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