安土桃山時代

蜂須賀正勝 〜豊臣秀吉の出世を支えた名脇役

墨俣一夜城で有名

蜂須賀正勝

蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)は、小六(ころく)の名で一般的に知られた武将です。正勝は今日では後世の創作と言われている美濃の斎藤氏攻めで秀吉とともに出城となる「墨俣一夜城」を築いた人物としても広くその名を知られています。

正勝もこの時代の秀吉の家臣に多かった元々織田信長に仕えていた武将でした。

信長の死後に秀吉の直臣となったという経歴の武将ですが、秀吉の天下取りに大きな貢献をした人物のひとりと言えました。巷説も含め正勝について調べて見ました。

斎藤道三へ出仕

蜂須賀正勝

※斎藤道三

正勝は大永6年(1526年)に尾張の国人・蜂須賀正利の長男として生まれました。年齢的には秀吉よりも11年ほど上であったことになります。

正勝は天文22年(1553年)頃には美濃の斎藤道三に仕えたとされ、道三が自らの実子・義龍と戦った長良川の合戦でも道三勢の武将として敵の首級を取るなどの武功を挙げたと伝えられています。

しかしこの合戦で道山が敗れると、以後は尾張の織田信賢、さらに織田信長へと主君を変えていったようです。

後世の創作では正勝は野盗集団の頭目として描かれることが多々ありますが、秀吉の天下取りを脚色するための創作というのが実情のようです。

信長の元、秀吉の与力へ

正勝は永禄9年(1566年)、冒頭でも触れた美濃の斎藤氏攻略において、墨俣へ出城の築城にそれが一夜城かどうかは別として、秀吉の与力として加わっており、かつての主家であった斎藤氏配下の国人衆への橋渡し役を担いました。以後も正勝は秀吉の与力として織田勢の主要な合戦に従軍し、数々の武功を挙げています。

近畿を制した信長が、秀吉を中国方面軍の総指揮官に命じると正勝もこれに従い、また正勝の子・家政は秀吉の直臣となって天正7年(1579年)の播磨の三木城攻略や翌天正8年(1580年)の広瀬城攻略に貢献しています。

これらの武功によって正勝は長水城を得て初の城主となりました。更にこの後、播磨を織田勢が制すると正勝は龍野城に5万3千石を領する大名となりました。

豊臣の筆頭家臣へ

※太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝

天正10年(1582年)には秀吉の水攻めとして名高い備中高松城攻略に正勝も従軍しました。

この時、京では本能寺の変によって信長が横死したため、対峙していた毛利勢との和睦を正勝と黒田孝高とが担いました。これによって後顧の憂いを断った秀吉勢は一路京へと兵を返しました。

この中国大返しの後、正勝は京へ入った秀吉本体の主力となって山崎の合戦の勝利に貢献しました。

織田家のその後を決める清須会議で秀吉が主導権を握って柴田勝家と対立すると、これに続く賤ヶ岳の戦いに正勝も従軍しました。

このときは直接の戦闘には及ばなかったものの、勝家側の滝川一益の降伏への対処を行うなどしています。

続く天正12年(1584年)頃には正勝は豊臣臣下の宿老の筆頭に数えられ、この前年に家督を子の家政に譲っていた正勝は秀吉に近侍して、常に大阪城に身を置いていました。

阿波踊りの始まり

※徳島市阿波おどり

天正13年(1585年)の秀吉による四国・長宗我部攻めは正勝は目付として従い、子の家政は播磨勢として讃岐から阿波へと兵を進めました。戦後は家政が阿波17万3千石を領し、阿波一国を治める大名となりました。

尚、それまでの正勝の領地であった龍野城には福島正則が入りました。家政は蜂須賀氏の一族郎党を引きつれて阿波へと入り、秀吉の命に従ってそれまであった渭山城を破却すると新たに徳島城を築いて居城としました。

因みにこの家政の阿波入りの際のに領民に無礼講で踊りを許したものが、今に残る阿波踊りの始まりとも伝えられています。

翌天正14年、一旦京にて療養生活をしていた正勝は大阪に戻りましたが病の再発によって享年61で世を去りました。

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