朝敵となった長州藩
禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月(1864年8月)に京で発生した長州藩と薩摩・会津藩ら幕府側の勢力との戦闘のことです。
最大の戦闘が行われた場所が御所の蛤御門(はまぐりごもんのへん)周辺であったことから、別名・蛤御門の変とも呼ばれています。
この戦いは戦国時代以来の京での戦さとなり、約3万戸の住居が焼失する大規模な市街戦となりました。またこの戦いで長州軍を指揮した来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉らが戦死し、敗北すると同時に、御所に銃を向けた長州藩は朝敵とされ、その後の長州征伐へと進んでいくきっかけとなりました。
八月十八日の政変
禁門の変の前年、文久3年(1863)までは長州藩は京の政界において純然たる影響力を誇っていました。
そこで更なる尊王攘夷を推し進めようとした長州藩は、孝明天皇による大和への行幸を企図しました。
この行幸は表向きは攘夷を祈祷する目的とされていましたが、その実一気に倒幕の挙兵をすることを画策したものでした。この策略を察知した会津藩と薩摩藩は共同して事の真相を朝廷に奏上しました。
孝明天皇はこの報せを受けて薩摩藩と会津藩を御所の防衛にあたらせた上で、長州藩とその賛同者の公家らを京から追放、「八月十八日の政変」と呼ばれる政変劇となりました。
これにより尊王攘夷派の勢力は京の政界から退けられ、長州藩は会津藩と薩摩藩に大きな怨嗟の念を持つようになりました。
池田屋事件で挙兵を決意
京の政界から追放された長州藩は同調者である公家の三条実美らの公家と謀り、勢力回復をしようと企図しました。
しかし京の政界は完全に公武合体派に牛耳られてしまい、尊王攘夷と討幕を目指す長州藩が再び返り咲く有効な方策はない状況でした。
この状況に至って、長州藩の指導者の中でもは桂小五郎ら穏健派と来島又兵衛の主戦派に大きく意見が分さていました。
そうした中、京の池田屋に集った尊王攘夷派の志士達が、嗅ぎつけた新選組に襲撃されて多数の犠牲者を出す「池田屋事件」が発生しました。
ここに集っていた志士達は京に火を放って、その混乱を利用して天皇を長州へと拉致しようとするかなり無謀な計画を企てていましたが、新選組によって阻止されたという事件でした。
この事件を契機として、報復に燃える長州藩では主戦派が挙兵を決め「禁門の変」が勃発することになりました。
西郷の薩摩勢の前に敗北
池田屋事件の翌月の元治元年(1864)7月、京に入った長州軍は武力を背景にして朝廷に対し、藩の地位回復の請願を行いました。
しかし朝廷側はこれを拒否し、同月19日には武力衝突へと発展しました。
御所へと突入しようとする長州勢に対し蛤御門の守備に就いていた会津勢との間で激しい戦闘が繰り広げられ、長州の来島又兵衛の一隊は中立売門から御所へ突入することに成功しました。
そのまま来島隊は蛤御門の会津勢への攻撃を行う展開となり、序盤は長州勢が優位に戦いを進めました。そこに西郷隆盛が率いた薩摩勢が駆け付けて立場は逆転します。
薩摩勢は最新の銃火器を装備し強力な火力を誇ったため一気に長州勢を圧倒、来島又兵衛は銃弾に倒れて自刃に追い込まれました。
また久坂玄瑞も最期まで嘆願を続けた公家の鷹司邸で自刃して果て、長州勢は完全に京から駆逐されることになりました。
最大の危機からの復活
禁門の変の後、討幕を企図していた長州藩にとどめを刺したいと考えた徳川幕府は、この戦いで御所に銃を向けた長州に対し、朝敵として征伐する許しを朝廷から得ました。
更に前年に発生した下関戦争に対する復讐として、米・仏・英・蘭の4ケ国から成る外国軍の侵攻を受けた長州は尊王攘夷派が藩の上層部から一掃されて、幕府に恭順の意を示す勢力が藩政を担うことになりました。
しかしこの苦境が伝説的な高杉晋作の挙兵、薩長同盟の締結による武力討幕へと続く流れに結果的には繋がって行くことになったのでした。
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