東西ドイツ統一
1989年11月9日ベルリンの壁崩壊、翌年の1990年10月3日東西ドイツ統一。
そのニュースは当時ドイツの人々のみならず世界中の人々を歓喜に沸かせた。崩壊した壁によじ登り歓喜の声を上げる若者の姿を、検問所を乗り越え抱き合う西と東の人々の姿をテレビでも見たことがあるだろう。
今やドイツはEUのリーダーとして世界経済に欠かせない役割を果たしている。東西統一から間もなく30年が経ち、今となってはむしろかつてドイツが二つに分断されていたということが嘘のようにさえ感じる。しかし、当然のことながら東西ドイツ統一後すぐに今のドイツになったわけではない。
統一後の東ドイツは一体どうなったのであろうか、その実態をみていこう。
西に吸収された東
1990年、東ドイツが西ドイツに編入される形でドイツは東西統一を果たした。しかし統一は決して手放しで歓迎できるものではなく、急ピッチでなし崩れ的に進められた統一はその後さまざまな課題を残す形となった。
資本主義体制だった西ドイツと共産主義だった東ドイツ、そもそもの経済体制が違うまま40年も分断していた国が急に一つの国になったのだ、当然として生まれたのは経済的混乱である。
共産主義圏では優等生だった東ドイツ、しかしそれはあくまで共産主義圏内ではの話であり、第二次世界大戦後から主にアメリカによる支援を受け、目覚ましい経済発展を遂げていた西ドイツと比べれば、そこには圧倒的な経済格差が存在していた。
統一後、旧西ドイツのコール首相は旧東ドイツの国営企業を民営化、その後相次いだ倒産により失業者が増加することになる。また、コール首相は1:1での通貨交換を推し進めてしまったために、当時日本円にして約3兆5000億にもなる金額が吹き飛ぶことになりドイツは赤字経済に陥った。
西と東の激しい経済格差、流れは自然優等生の西が今や落ちこぼれの東を支える流れとなる。旧西ドイツ地域の住民には連帯税という税が課せられ、彼らが払う税金によって旧東ドイツのインフラ整備や失業者の手当てに充てられるようになり、徐々に西の経済は圧迫されるようになった。
そうしてそんな中で自然に生まれるのは「統一しない方がよかったのではないか」というそんな考えである。
オスタルギーとは何か
旧西ドイツの人々が旧東ドイツの人々を支えるという構図は、徐々に西の人々に不満を植え付けていった。「東が西の足を引っ張っている」という不満である。そしてそんな不満は次第に偏見の目を生み出すことになり、西と東の間に目には見えない新たな壁を生み出すことになるのだ。
東の人は時代遅れで頭が固い、西の人は傲慢で失礼だ。そんな互いに対する偏見の目が西と東の間に見えない壁を形成した。そんな中、東ドイツの人々の間に生まれたのは「オスタルギー」という言葉である。
ドイツ語で東を意味する「Ost」と郷愁を意味する「Nostalgie」という単語を組み合わせた複合語である。
この文面からも容易に想像できるように、旧東ドイツ時代を懐かしく思うことを表した言葉だ。東ドイツ時代、一党独裁体制の下で国家秘密警察シュタージによる監視社会が敷かれ、その中で国民たちは息苦しい生活を強いられたことは事実だ。そんな体制を国民たちの行動によって打ち砕いてきたのも事実である。
けれど、当時の東ドイツの体制を批判する気持ちとそんな時代を懐かしく思う気持ちとは矛盾するものではない。西と東が分断されて40数年、人生のほとんどの時間を東ドイツという国で過ごしてきたという人も決して少なくはなかった。どんな批判すべき体制であろうと、自分が東ドイツという国で大切な人生の一部を生き抜いてきたのは事実であり、その時の経験もまた自分という人間を形作る一つの要素であることに変わりはないのだ。
東西統一後、東ドイツの人々の間に生まれたのは何も歓喜の声だけではない。西との甚大な経済格差。増大する失業者。互いに行き交う偏見の目。そして、東ドイツでの日々を懐かしく思うオスタルギー。それら全てを含んでやっと辿り着いたのが今のドイツの形なのである。
まとめ
統一から30年という月日を経て東西間の経済格差は徐々に小さくなってきた。けれど依然としてドイツ東西間には経済格差が存在している。旧西ドイツ国民が旧東ドイツに対して支払う連帯税はまだ存在しており、西が東を支援するという形は変わっていないのだ。
もしかしたら、オスタルギーという言葉は今でもドイツで現役なのかもしれない。
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